木苺

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 神社の裏に短い石段があり、降りたところが書庫になっていた。白い漆喰壁の蔵のような建物で。神社に伝わる古文書や歴代の神主が蒐集した書物がぎっしりと詰め込まれている。いったい何冊くらいあるのか数えたことはないが、全部読むのに百年はかかりそうである。    その石段の脇に木苺の木があって、実が真っ赤に熟していた。まれに見るような深い赤で、まるで書庫の叡智を全部吸収してそうなったかのような色づきだった。  神社には月に一度、お祓いの日というのがあった。疫病神退散や招福開運を願う人たちがやってきて、お祓いを受けるのである。とくに悪い邪鬼にとりつかれている人はそれを取り除いてもらう。  おかげで境内には、人体から追い出された邪鬼の小鬼たちが、行き場を失ってうろうろとさまよっていた。やせた黄色い鬼、鹿のように枝分かれした角の生えた鬼、そんなのが参道に座り込んだり、所在なさそうに木の枝にぶらさがったりしていた。  しかし、参拝者はその中をごく平穏に行き来している。彼らの姿は人間には見えないのである。そして小鬼たちも、神社の境内で人にとりつけば痛い目にあうことを知っていたので、我慢しておとなしくしているのだった。  本堂では、狩衣に烏帽子を被った正装のノブヤが、いつになくまじめな顔で参拝者の頭を御幣で払っていた。  神社の収入は限られている。氏子の寄付だけではやっていけないのである。  この日、最後のお祓いの相手は、りく・ソロモン・牧野という小学生である。ロシア人の父と日本人の母親のあいだに生まれた子供ということで、ふつうと変わった名前をもっていた。  りくには父親であるイヴァン・ソロモンが付き添っていた。大きい鼻。広い額の長身の男で、やさしげな茶色い瞳をしていた。ロシア人でもユダヤ系のようだ。ソロモンは伝統的なユダヤの姓である。りくもユダヤ人らしい黒髪の子供だった。  りくは小学校の二年生ということだが、まだ幼稚園の子のようなあどけない顔をしていた。ことばもうまく話せないらしい。そうした成長の遅れを心配した日本人妻の勧めで、こうしてお祓いにやってきたということだった。  しかし、りくから悪い憑き物は現れなかった。疫病神や鬼や魔物は出てこなかったのである。  ノブヤが振る御幣の下で、りくは大きな目を左右に動かしながらニコニコ笑っていた。どうやら、この子の成長が遅いのは、しかたのない生まれつきの個性であるらしかった。  いつの間にか、りくの座っていた畳が濡れていた。お漏らししたのだ。  父親のイヴァンはあわててりくを抱き上げ、ノブヤに謝った。 「子供のしたことですよ、気にしなくっていいです」  ノブヤは笑ってりくを社務所の風呂場へ連れて行き、汚れた下着の代わりにタオルを巻いてやった。  そのあいだ中、りくはうれしそうにはしゃいでいた。自分がいけないことをしたという自覚がないほどに、この八歳の子供はまだ赤ちゃんの知能でしかなかった。  イヴァン父子が帰るころには、夕方近くなった空が暗くなり始めていた。烏が鳴いている。  鳥居の外まで見送りに出たノブヤに、りくが小さい手をふった。  社務所に戻り、お茶を飲んでいると、突然、戸が引き開けられた。さっき帰って行ったばかりのイヴァンである。青い顔をして胸にしっかりとりくを抱いている。  何があったかときくより先に、ノブヤは外の異変に気が付いた。出てみると、境内に黒いセダンの高級車と二台のパトカーが入って来ていた。そして数人の外国人と警官が睨み合っている。セダンから降りてきたのはどうやらイヴァンと同じロシア人らしい。いったい、なにが起こっているのだ。  まもなく、スーツ姿の日本人の男が二人、社務所にやってきた。半白の初老の男とやせた中年の男だ。  なかば押し入るように戸口を入ってきた初老の男が見せた名刺に、ノブヤはおどろいた。外務副次官とあった。政府の高官である。 「藤井と申します。こちらは庄野先生。少しの時間、イヴァン氏とお話しさせていただいてよろしいでしょうか」  切迫した様子の藤井の背後から、ロシア語と日本語の言い争う声がしていた。ロシア人たちが社務所に近づこうとするのを、警官が止めているようだ。  何だか知らないが緊急事態のようだ。  イヴァンは手帳から白紙の一枚ちぎって机に置くと、藤井が連れてきた庄野がのぞきこむ前で、ペンを走らせた。  庄野はなるほど「先生」と紹介されるだけあって、色白の学者らしい感じのする男だった。  はじめは熱心にうなずきながら聞いていた庄野だったが、しかし、やがて表情をこわばらせ、ついには苦しげに頭を抱えてしまった。「無理です。あなたの理論はわたしにはとうてい理解できない!」    すると、イヴァンは憤然として机を叩き、庄野をにらみつけた。しかし、庄野はもはや理解しようとすることをあきらめてしまって、顔をゆがめて立ち尽くしている。イヴァンは、机から紙を取り上げると、くしゃくしゃに丸めて床に捨ててしまった。  藤井はおろおろとイヴァンを取りなしたが、イヴァンから何かの情報を受け取るはずの庄野が、でくのぼうのようになっているのだから、もう、どうにもならなそうだ。 「すみませんが戸口に鍵を掛けていただけませんか」  藤井はそういうと、もういちどイヴァンに頼み込んだ「肝心なところだけでいいのです。庄野先生が理解できるように、もう一度説明してやってください」。  しかし、イヴァンは社務所の中を行ったり来たりするだけで答えなかった。 「あのロシア人たちは何者なのです」  戸口に鍵を掛けながらノブヤがきいた。 「隠してもしかたありません。あの人たちはロシア大使館の職員です。というよりロシア政府が派遣した秘密警察です。これからイヴァン氏を飛行機に乗せてロシアへ帰るのです」 「わたしは帰りたくなどない!」  イヴァンが叫んだ。  心底いやがっているようだ。 「しかし、法制度上なんともできません……」  藤井は頭を振った。 「子供も一緒にですか?」  なんとなく気になってノブヤがきいた。 「いえ、お子さんは日本国籍をお持ちなので、彼らも無理に出国させることはできません。しかし、イヴァン氏はまだロシア国籍でいらっしゃいますので……。国際法に従がうよりないのです。それにしても、わたしが、もっと気を付けていれば、むざむざ日本の輝かしい未来を他国に奪われるようなことにはならなかったのです……」  ぐっと息をのんで下を向いた藤井は、くやしそうに手を握りしめていた。  部屋の中を行ったり来たりしていたイヴァンは、ふと、ソファーで小さくなっているりくが目に入ったらしく、大股に近づいていくと、覆いかぶさるようにして身を寄せた。  最後の別れをするつもりなのかと、ノブヤはおもった。しかし、そうではなかったようだ。 「りく、いいかね。これからお父さんの言うことを覚えるんだ、ちゃんと覚えるんだよ」  息子の小さいひたいに自分のひたいを押し当てて、イヴァンは口を動かしはじめた。  どうやら、さっき庄野が理解することをあきらめた何かの情報を、息子のりくに伝えようとしているらしい。しかし、大人でも理解できなかったことが、はたして、りくにわかるのか?   ノブヤはなんだか見ていられない気がして、目をそらした。 「お前ならできる、りく。だってお父さんの子だ。しっかり覚えて。そして大きくなって、この意味が理解ができる日が来るまで、けっして忘れてはいけない」  真剣な表情に見守られながら、りくはただ、お父さんに顔をくっつけられてうれしいのか、無邪気に両頬にえくぼを作ってよろこんでいた。  イヴァンを押し込めたロシア大使館の大型セダンが、境内から発車するところだった。成田へ直行するということだ。  ノブヤはりくを守るように小さな肩に手をのせて、藤井と一緒に社務所の外に立って、大使館の車が動き出すのを見送っていた。  いやがる者を力ずくで連れて行くなんて、誘拐と変わらないではないか。国際法だろうと国家だろうと許されていいはずがない。ノブヤは腹を立てていた。  見ると、日が落ちて夕闇が濃くなった境内のあちこちから、ノブヤに祓いとばされて所在なく境内をさまよっていた小鬼どもが、大使館の車へ手をのばしながら、おそるおそるノブヤへ目を向けていた。  憑りついていいかと神主に伺いを立てているのである。邪鬼といっても棲家がないのはかわいそうだったし、あいつらならちょっと痛い目をみさせてもかまわないだろうとおもわれた。  ノブヤは肩に這い上ってきていた手足の細い、頭でっかちの小鬼をつかまえると「ユダヤ系の男には悪さをするなよ」と注文をつけて、小鬼どもに許可をだしてやった。  小鬼たちはわれ先に車に飛び掛かっていき、鳥居を出て行く黒い車体の中に吸い込まれていった。  藤井とりくを乗せたパトカーも、神社を離れて行ったあと、ノブヤはイヴァンがくしゃくしゃに丸めて捨てて行った紙を床から拾って開いてみた。見たこともないような複雑な数式が途中まで書いてあった。  あるだけの数学と物理の本を持って来て、ノブヤはその数式を解くべくしばらく奮闘してみたが、やがて本を棚に戻し、その紙をふたたびくしゃくしゃに丸めると、ゴミ箱に放り込んでしまった。結局、天才の頭から出たことは天才にしか理解できないということがわかっただけだった。  それから月日は経ち、これは、だいぶ後の話になるが、その事件から十年ほどが経ったある日、ノブヤはイヴァンの奥さんからあの事件が起こったいきさつのあらましを聞くことができた。  イヴァンはロシア国籍のユダヤ人で、学生のときに日本にやってきたのだそうだ。プラズマ物理学を専攻し、卒業後、その関係の会社で仕事をしていたが、独自の研究で核融合の新しい理論を発見し、それを学会に発表する予定だった。  ところが、論文の査読を依頼したロシアの学者が、政府と深いつながりを持っていたらしく、たちまち論文の発表が差し止められ、すぐに帰国するよう勧告されたという。しかし、奥さんと結婚してりくが生まれていたイヴァンはそれを拒否した。  イヴァンから保護を求められた日本政府と、出国を求めるロシアの間で協議がつづいたそうだが、そのあいだ、イヴァンは身を守るために、新しい理論の肝心のところを秘密にして誰にも話さなかった。理論は難解で、論文を検証した学者の誰もが理解することができなかったらしい。それでロシア政府はとうとう、イヴァンを無理やり帰国させる決断をしたのだ。  核融合は人類の夢である。もし完成すれば永遠で無尽蔵のエネルギーが手に入る。ロシアが是が非でも手に入れたがる気持ちはわかる。  それでも、あれから十年が経った今でも、ロシアで革新的な核融合炉が作られたという話は伝わってこない。  黒いセダンと一緒にロシアへ渡って行った小鬼どもが、邪魔をしているのかもしれない。が、本当のところは、きっと、イヴァンがロシアに自分の理論をちゃんと教えていないためだとおもわれる。  歴史をみれば、ユダヤ人はロシアで長い間、ゲットーに押し込められ差別されてきた。ユダヤの血を引くイヴァンがロシアをおもしろく思わないのは当然のことだろう。国籍はロシアでも愛情を持てないのだ。  そして、口を噤みつづける決心をしたイヴァンは、息子のりくにすべてを託したのである。  ぼんやりした子供のりくが、はたして、父親の理論を継ぐことができるかどうかはわからない。  しかし、だからといって、それが間違いだったとはいえない。 『お前なら理解できる、りく』とイヴァンは信じたのである。父親がそう信じたことに、だれもとやかく言うことはできない。  高校生になったりくは、まだぼんやりした顔つきで、そぶりも幼い子供のままだった。が、勉強はだんだんクラスで一番できるようになり、父親ゆずりのその茶色い目に、時折、するどい知性のきらめきを浮かべることがあった。  ひさしぶりに社務所に遊びにきたりくが、むかしの数学の本が読みたいというので、書庫にあった関孝和の本を貸してやることにした。  りくと一緒に神社の裏の石段を降りていくと、書庫の白壁のあかるい照り返しのなかで、木苺の実が赤く色づいていた。 おわり
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