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「仁くん! いいところに来たな!」
研究室に入るなりくっそでかい声で言われ、俺は一瞬のうちに二度たじろいだ。
一度目はでかい声に。二度目はその内容に。
「な、なんですか?」
不信感と不安と警戒心をできるだけ表に出して聞くと、声の主、枝葉先輩は満面の笑みを浮かべて錠剤の入った瓶を差し出してくる」
「まあ悪いことは言わない飲みたまえ」
「いやです」
きっぱり断ってから、眉を顰める。
「ていうかそれ、こないだのアレじゃないんですか? 望みの現実を観測して波動関数を収束させるとかなんとかいう」
「あれはダメだ、失敗作だ」
あっけらかんという先輩に、頷く。
量子力学と脳科学を応用して作り上げたという「望み通りのことを実現する薬」は、いかにも怪しげな呼び名の通り、ほとんどなんの効果も表すことができなかった。「結局のところ現実を決めているのは複数の脳による観測であって、一個人で都合良く波動関数を収束させようという発想が間違いだったのだ」と先輩は言っていたはずだ。
「なので改良した」
「ええ?」
不信感が募る。眉を顰めいつでも逃げ出せるようにと全身の筋肉を緊張させる俺に、先輩は構わず続けた。
「逆転の発想だよ。観測によって一足飛びに現実を変えることができないのなら、あらゆる可能性を知り、最善の一手を選べるようにすればいい」
「どういうことですか」
これでも同ジャンルの研究者の端くれだ。興味を抑えきれず恐る恐るきくと、先輩はニヤリと笑ってみせた。
「うむ。ざっくりいうと、シュレディンガーの猫に、自分が生と死の重ね合わせ状態であることを自覚させた上で、生につながるような行動を取らせようということだな」
「はあ」
「もっとも、あの実験装置の場合には猫自身の行為が介入する余地が小さすぎるわけだが……仁くんにもあるだろう、あの時もしこっちではなくあっちを選んだらどうなっていただろうとか、やっぱりこれはやらない方がよかったのではないか、などと思える瞬間が」
「ええ、まあ」
例えばこの形而上生物学研究室に来たことについてとか、という言葉は言わずにおく。
「人がそんなことを考えるのは、蓋然性の世界全てを見通すことができないからだ。人が知ることができるのは常に「選んだ選択肢の結果」だけで、選ばなかったら、他の選択肢を選んだらどうなったかは、常に闇の中。ならば、全ての選択肢をあらかじめシミュレートできれば、常に最善の一手を選ぶことができるのではないか」
「そんなことが?」
「うむ。量子力学の示すところによれば世界は無数の可能性の重ね合わせだ。ならば人の脳も、既に無数の認識の重ね合わせ状態にあるはずだ。あとはそれをつなげて、一つの意識のもと統合すればいいわけだ」
「できるんですか」
「できるはずだ。世界を観測し波動関数を収束させる部位はわかっているのだから、そこを選択的に麻痺させればいい。この薬には、その作用がある」
「そんな状態になってまともに生活できるんですか。情報量多すぎてスタックしちゃいそうなんですけど」
「心配には及ばん。効果は一時的なものだ。そもそも、重ね合わせ状態は既に存在しているのだから、認識が変わるのは本人の問題だ。周囲にとっては仁くんはそれぞれの脳の働きによって収束した仁くんでしかないのだから、ごく普通に見えるはずだよ」
「先輩を疑うわけじゃないですけど」
こうしてブラックな人体実験をゴリ押ししてくること自体相当やばいのだが、一方で研究者としての先輩の優秀さは疑うべくもない。それに……「最善の一手」。なんとも魅惑的ではないか。
「わかりました、飲みますよ」
俺は誘惑に負け、小瓶を受け取った。
その効果が現れた時の認識が、正確に言葉にできるとは思えない。
一言で言えば、「世界のすべてが一度に認識できた感覚」。
ありとあらゆる可能性、ミクロからマクロに至る無数の偶然と必然網の目。素粒子の振る舞いや自分を含む人の行動の些細な違いがもたらす、世界のバリエーション。
その全てが、等価であり、相互補完的ですらある、混じり気なしの現実として、同時に認識される。
現在、未来。
そして過去についても。
「なななんだそのため息は」
薬の効果が切れた俺が最初に聞いたのがこのセリフ。
「まさか、何も起こらなかったとでも」
「いいえ、効果はありましたよ」
俺は軽い酩酊感を振り払いながら答えた。
「確かに、先輩の言う通りの効果がありました。さすがです。俺は今まで、多世界の全てを認識していました。自分が何をすればどう言う結果が得られるかまで、ばっちりわかっちゃいました」
「そうか! それはめでたい! おめでとう、これからの君は一切間違えることはないぞ!」
「はあ、まあそれはそうなのかもしれませんが」
俺はもう一度ため息をついた。
「自分が何をどうやっても、この程度の結果しか得られないのか、と思うと……ちょっと、絶望的ではありますね」
「むむ。しかし不慮の事故や無駄な試みからは解放されるだろう」
「ええ、まあ。でもね先輩、同じことが過去についても起こったわけで」
「うむ?」
「俺、現状が最良だと思ってるわけじゃないけど、まあそれなりには満足してたわけですよ。まあこんなもんだろ、みたいな。でも、わかっちゃったんですよね。あの時ああしていれば、あるいはしていなければ、どうなったかって。本当なら、もっといい現在が、あり得たんだって」
「あー、うむ、そう言うこともあるだろうな」
「こんな無数の、最良の選択をし損ねた事実、知ってしまったら後悔してもしきれないです」
先輩は絶句する。俺は言った。
「まあ、飲むの決めたのも自分ですけどね。この選択こそ、今後の人生で、最大の後悔の種になると思いますよ」
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