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僕はそれから仕事をしては眠り、仕事をしては眠りというサイクルを繰り返した。その間は誰とも会わず、また灰色の中にと閉じ込められることもなかった。正直、僕はこの生活を好きになりかけていたのかもしれない。ずっと一時停止ボタンの押された映画のように、決して進みもしないが、決して戻ったりもしないこの生活が。
それでも、どこかでこのままじゃいけないという思いも芽生え始めていた。沼の中で足を止めることは、そのまま沈んでいくことを意味するから。
結局、僕は僕の心からの警告を聞き流し、一時停止ボタンを押し続けた生活を送った。そして、日付は彼女の命日の前日となった。その日は偶然、中国のお盆でもある中元節と日と重なっていた。
僕はその日もいつもと変わらぬ日を送った。ただ目の前のパソコンのモニターに表示された無機質な数字を処理し、カップラーメンを作りシャワーを浴びる。僕は明日が彼女の命日であることを、ぼんやりとした頭で考え、ベットに横になった。電球の紐が左右に揺れるのをただ眺めているうちに、僕は黒い睡魔の波に身を任せて漂流の旅に出たようだ。
けれど、なぜか僕はまた起きてしまった。なぜかを考えるまでもなく、外が光っているから起きたのだと僕は理解した。月明かりではない。僕の家のベランダに光の源がある。
僕はその光に引き寄せられるように、ベランダへと続くサッシを開ける。光の方を見ると、その中心にはモンシロチョウがいた。羽はボロボロでなぜ飛べているのか分からないほどだった。そのモンシロチョウは僕の脇を通り過ぎ、玄関へと飛んでいく。そして、玄関に置かれている僕の傘の上にとまった。
僕がそこまで行くと、モンシロチョウは飛び立ち、玄関のドアの前を飛び続けた。まるで「早く開けろ」と言っているようだ。僕が靴を履き、玄関を開けるとモンシロチョウは外に出ていった。
外には満月が浮かんでおり、人が一人もいなかった。深夜なのだから当たり前のことだ。けれど誰もいないアスファルトはひどく冷たく感じた。
いったいどれだけ走ったのか分からないが、僕はなぜか疲れを感じていなかった。まるで夢の中を歩いているみたいだった。いや、実際夢なのだろう。光るモンシロチョウを追いかけて走っていること自体が現実的ではない。
そうこう考えていると、モンシロチョウと僕はある場所にたどり着いた。
神社だ。この前のチラシに乗っていた、縁日が開かれるという神社。境内に続いていく石段には提灯が灯り、ずっと遠くまで屋台が出ている。時間は深夜のはずなのに。おまけによく見ると、僕が提灯だと思っていたのは鬼灯であり、屋台の文字も日本語だったり中国語だったり英語だったりアラビア語だったりと様々で、人もそれだけ多くの人種がいた。
「ここは……一体」
僕はその空間をとても不思議に思ったが、恐怖は感じなかった。それどころか居心地がいい。縁日に来ている人たちもそれは同じなようで、一緒にお酒を飲み交わしたり、様々な地域の料理をつまみに談笑に花を咲かせている。
僕は引き寄せられるように一歩、また一歩と神社の中へと入っていく。すると、モンシロチョウが僕の周りを旋回した後、僕に「ついて来い」と言っているかのようにまた少し前を飛び始めた。その様子を見ていたらしいアメリカ人らしい男の人に「おお、お前に会いたがっている人がいるってことさ。幸せもんだな、死んでもお前を想っていてくれる人がいるって」と笑顔で言われた。不思議と意味が通じる。
「僕に会いたがっている人?」
「ああ。お前にとっても大事な人だぜ。ほらほら早く行ってやんな。ここを楽しむのはその人と一緒でもいいだろ」
ぽんと優しく背中を押され、僕はまた歩き出した。目の前を飛んでいるモンシロチョウは境内への道を外れ、山道へと入っていく。
山道を歩き始めてから少ししてからだろうか。奥の方が何やら光っているように感じた。電気の明かりや提灯の明かりでもない。もっと優しく、そして暖かい光だった。僕はたまらず、駆け出した。モンシロチョウを追い越し、木々の間を縫って、その光へと駆けていく。
その光の正体は、蛍だった。何百、何千という蛍が沢の周りを飛んでいる。そして、その沢のふちに、一人の女性が立っていた。
「もう。モンシロチョウを困らせちゃダメじゃない」
その声は僕の耳から入ってきて、胸の中の感情をぐしゃぐしゃにしていく。僕はその声をずっと聞きたくて、でも頭のどこかではもう聞けないと分かっているから忘れようと必死に毎日を送ってきたのだ。
「あ、ああ」
つい声が漏れた。その女性がゆっくりとこちらを振り向く。その顔には、微笑みが浮かんでいた。
「久しぶり」
僕は、たまらず、もう会えなくなるはずだった恋人を抱きしめた。優しく、でもどこにも行ってしまわないようにしっかりと。彼女も同じだけの力で僕を抱きしめた。それを見ているのは、僕たちの周りを命を光らせながら飛ぶ、蛍たちだけだった。
「あのお祭りは中元節のお祭りとは少し違うの。世界中の死者たちが楽しむための、名前の無いお祭り。だから言葉もお金も国境も関係ない。温かいお祭りでしょ」
「それであんないっぱい人がいたのか」
僕と彼女は手を繋いだまま沢のふちに腰掛け、つがいを探し続ける光を眺めていた。膝に触れる水の感覚が心地いい。
「それで、なんでこんなにげっそりしてるの?」
「いやーあはは」
彼女は釣り目をさらに鋭くして、ジトっとした声を僕に向ける。僕は、一度だけ僕が本気で彼女を怒らせてしまった時のことを思い出した。あの時は手が付けられなかったなーとぼんやりと思った。
「どーせ、私のこと思い出して、くらーい日々を送ってたんでしょ」
「……その通りです……」
「まあ、そんなに想ってくれてるのはすごく嬉しい。でも、また歩き続けてくれるともっと嬉しいのになあ」
彼女は指を差し出した。その指の先端に一匹の蛍が止まり、淡く光り出す。
「私たちの願いが何か知ってる?」
「願い?」
「また前を向いて歩いてほしい。それが私たちの残された人たちへの願いよ。だって……だって本当に好きな人の苦しむ姿は見たくないじゃない?」
彼女は微笑んだ。その笑みは僕を導く月のように綺麗だった。そしてそれと同等の価値を、彼女の言葉は持っていた。
彼女の指にとまっていた蛍が今度は僕の指先にとまる。体温を持たないはずの蛍の光が、僕の灰色だった心を染め上げ、温かく塗り替えていく。
「最後に自分を救うのは、自分自身の意志と大切な人からの励まし」
そう言って彼女は僕の頬にその小さな口を付けた。僕は彼女のほうを振り向いて、そっと抱きしめた。僕はまた彼女に救われた。一度目は僕の単調だった日々に楽しみをくれたこと。二度目は灰色だった僕の毎日に色を付けて、振り出しに戻してくれたこと。
「さ、そろそろ朝よ」
見ると、街の隅がだんだん白みだしていく。それは彼女にとってのここでの終わりの朝であり、僕にとってはここからの始まりの朝だった。
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
僕は自分のベットで目を覚ました。今まで見ていた心地の良い、理想郷の夢を思い返した。僕はそれをそっと胸にしまう。それこそが、彼女の僕への最後の願いだったから。
ふと横を見ると、枕元に鬼灯が転がっていた。それは日の光を浴びて、提灯のように光っている。それは僕の今までを優しく照らしてくれた蛍の光とは違い、僕のこれからを明るく照らし続てくれるような気がした。
僕は久しぶりに心から微笑んで、その鬼灯を拾い上げた。
了
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