恋愛短編(中編) 蛍

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―――  彼女が、死んだ。    お盆が近付いた大学4年生の八月の、ある夕暮れ時のことだった。  あまりにあっけなく、突然の出来事だった。その知らせが届く0.1秒前まで、僕は友達と蛍が見れるという有名な川で三脚を立てて、その川が小さな生き物の、これはまた小さな、されど暖かい光で包まれるのを楽しみにしていた。  そして、カメラを三脚にセットし終わってから0.1秒後、携帯電話の振動を感じ、通話ボタンに指をあてた。そこからの記憶は、もうない。  ただ、僕は気づいたら市内の大きな病院にいた。森を突っ切って全力で走ってきたのか、それとも途中で事故にでも遭ったのか、僕の体は傷だらけで、太ももまで水にぬれていた。近くを通る親子連れが顔をしかめて出口に向かって行く。  待合室の看護師も、最初僕を見た時はそんな顔をしたが、僕が彼女の名前を出すとその顔の表情は、汚物を見るようなしかめ面から、同情を帯びた、可哀そうな猫を見るようなものに変わった。  一見何段階か印象が良くなったように見えるだろうか? でも正直、僕はその看護師に一生しかめ面のままでいてほしかった。同情は別に欲しくもなければいらないわけでもなかったが、その表情は否が応でも彼女がもうこの世にいないのだと、僕に突き付ける、一本のナイフに等しかった。  看護師は僕をもう一度やりきれないような表情で僕を眺めた後、僕を彼女の元(霊安室)へと連れて行った。  彼女は中国から来た留学生で、名を李・梓涵(リ・ズーハン)と言った。特別美人というわけではなかったけれど、彼女は日本語が堪能で、中国では小さな劇団に入っていたらしく、あらゆる所作にそれが現れていて、とても気さくな女性だった。僕みたいなコミュニケーション能力が地に落ちている、根暗な男子にも席が隣になれば、積極的に話しかけてくれた。化粧でいくらでも美醜を変えられる顔よりも、どんな化粧を施しても誤魔化しの利かない人間性という部分は、いつの時代の恋愛でも大事にしなければならないと僕は思う。  僕と彼女は、隣になるたびに、中国の話や日本の話、今日の天気の話で少し盛り上がった。そんなことが続いていくうちに、いつしか僕は、空いていれば必ず彼女の席の隣を選ぶようになっていった。要は恋に落ちたのだ。  彼女からのメールの返信を、僕は両親がお正月のお年玉をくれる瞬間以上に待ち望み、彼女があからさまに不機嫌であれば、「僕のせいではないか? 嫌われたのではないか?」と試験のマークシートの残された2択のように思い悩んだ。  結果的に、周りの友人の助けを借り、僕は彼女の恋人という称号を手に入れることができたのだけれど、現実感はまるでなく、寧ろ夢なのではないか? 起きたら僕は液体とチューブが広がる某映画のような空間にいるのではないかと本気で思った。  付き合い始めても、彼女は変わらず、僕に夢のような時間を与えてくれた。いつもはデートの後はファミレスで食事を済ませていたが、付き合って半年の夜にはバイト代を貯めて、少し高いディナーに行った。彼女はとても喜んでくれたが、高いディナーの時でも、安いファミレスの時でも、そのきらめくような笑顔は変わらなかった。  付き合って1年ともなると、済ませることは済ませ、でもそれでハードルが下がったのかどうかは知らないが、半同棲状態となった。 『絶対犯人こいつだって。……絶対こいつ。なんか犯人て顔面してるし』 『あれれれ? ちょっと? このゲームの暦長いんでしたわよね? あれれれ? あっれれれー? なんで負けたか、明日までに考えといてください』  毎日、映画やらドラマやらを見て過ごし、一緒にゲームをして夜を重ねていった。時に喧嘩するときもあったけれど、それも含めて大事に愛したくなるような時間だった。  その時間を僕にくれた彼女は、僕の目の前で、人形のように動かなかった。ぴくりとも動かない。僕に笑いかけてくるわけでもなければ、僕が勝手に彼女の饅頭を食べた時みたいに不機嫌な顔で睨んでくるわけでもなかった。  なにもかもが夢のようで現実感が無かった。きっといい夢と悪い夢を交互に見続けていたのだと言われても納得ができただろう。  その現実感のなさのせいだろうか? 僕は彼女が死んでから、今まで0.1mlというあるかないかも分からない量の涙さえ、こぼすことは無かった。
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