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婚約者
美人、だ。
それが、エリカが、婚約者であるリトと初めて顔を合わせた時の、偽らざる感想、だった。
屋敷の玄関前に準備された箱型の馬車に乗る前に、おもむろに、屋敷を振り返り見る。灰色の壁を這って伸びる、学者であったという父がこの街を差配する伯である母に贈ったという蔓薔薇が、初夏の日差しに薄紅色の花を揺らしていた。
「準備は、良いですかな、エリカお嬢様」
背後から聞こえてきた、家令のダリオの声に、振り向くことなく頷く。視線を西に向けると、街を囲む城壁の向こうに、丘と言うには険しすぎる山々と、一カ所だけ大きく空いている山々の切れ目が見えた。この場所からもはっきりと見える、その丘の更に西には、誰も住まない平原が広がっている。あの丘の向こうは、平原は、どのようなところ、だったのだろう? 婚約者であるリトが生まれ育ったという場所に、エリカは想いを馳せた。しかしそれでも、昨夜から胸の中でくすぶっている戸惑いは、消えない。何故自分は、これから、生まれ育った街からずっと東に離れたこの帝国の首都にまで赴かなければならないのだろうか? しかも、……知らない男の人と、一緒に。戸惑う心のままもう一度、屋敷の壁に咲く蔓薔薇に目を移したエリカの口から漏れたのは、溜息だった。
昨夜、リトと顔を合わせてすぐ、エリカは、この西の辺境地帯を差配するシーリュス伯でもある母から、リトと一緒に帝都に行くよう指示された。
「別に問題ないでしょう? 婚約者なんだから」
ある意味理不尽な、その言葉とともに。
大陸の東西南北を大きく支配し続けている帝国の最高責任者『帝』は代々にわたり、帝国の西の端に位置する丘向こうの平原を開拓しようと試みた。しかし長年の努力も空しく、人々は平原に潜む凶悪な魔物達に屈した。開拓を諦め、平原から引き上げるよう、人々に命が下されたのが、昨年の秋。そして半年以上かけて、動くことができる人々は皆、魔物が跋扈する平原から撤退した。平原に移住した人々を守り、また平原の魔物が丘を越え、帝国の他の領域に害を為さないよう監視する、帝国の西を守る『黒銀騎士団』の一支隊『黒剣隊』の隊長であったリトは、帝の命を無事に果たしたことを報告する為にシーリュス伯である母の許を訪れ、そして更なる任務として、この広大な帝国を統治する帝への報告の為、帝都へと向かうことになっていた。しかしながら。リトは、丘の向こうの平原しか、知らない。母の甥、エリカの従兄でもあるリトが、無知が故に帝都で無礼なことをしてしまい、恥をかいてはいけないから。母の言葉に、エリカは最終的に頷く他、なかった。
「リト殿は、もうすぐいらっしゃるでしょう」
戸惑いが苛立ちに変わる直前に、再びのダリオの声が聞こえてくる。
「馬車の用意はできておりますから、先に乗りますか、エリカお嬢様」
「ええ」
ダリオが浮かべている僅かな微笑みに、頷く。とにかく、エリカは自分の地位に応じた使命を果たすだけ。それだけだ。エリカは一人頷くと、馬車の後部に設えられた入り口に足を掛けた。
と。
「遅くなって済まない」
涼やかな声に、足が止まる。振り向くと、昨日と同じ美人が、エリカのすぐ後ろに立っていた。いや、昨日と全く同じではない。平原の厳しい生活ですっかり汚れてしまったマントを羽織っていた昨日とは打って変わり、今日は、おそらくエリカの母が用意したのであろう、黒銀騎士団の色であるすっきりとした灰色の上着を身に着けている。そして。リトの肩に留まっている飾りマントに、エリカは「あ」と言い掛けた口を何とか閉じた。少し斜めになっている縫い跡は、見間違いようがない。母に言われて、エリカが渋々、縫ったもの。あまりにも下手だとエリカ自身も感じ、誰にも分からないところに隠したはずなのに。そんな下手な出来のものを、こんな美人に身に着けさせるなんて。頬が熱くなるのを感じ、エリカは、自分と背格好が変わらないリトの前に立ち尽くした。
「さ、行きましょう」
そのエリカの前に、先に馬車に乗ったリトの小さな手が差し出される。エリカは何とか、その手を掴んで馬車の座席に腰掛けた。その隣に、リトも座る。だが。全く自然な動作で、リトはエリカから身を離し、馬車の背凭れの方へ身を預けた。
「え?」
リトの動作に、正直戸惑う。
しかしその戸惑いが顔に出る前に、馬車に乗り込んだダリオがリトの向かいの席に座り、馬車は滑るように走り出した。
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