狡猾な純情 1

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狡猾な純情 1

 春は3段階で進むのだそうである。  2月の初めの今は、光の春に足を踏み入れたところ、という事でいいのかな。日が長くなってきて、そしてなんだかキラキラしてきたと思う。  僕の好きな木瓜の花たちも嬉しそうに咲いている。名前はぼけでも割とくっきりした花色で、どこか作り物めいたこの花が僕は小さい頃から好きだった。  帰宅する僕たちを乗せた電車は再びスピードを上げて走り始めた。近景はみるみると僕の動体視力の能力を超えてしまい、色の固まりになってしまう。  そして、いつものポイントでガタンと揺れる車体。  ぐらりと揺れてしまう僕。  それを見越して僕を支えてくれる腕。  僕の方も支えてもらえると思っているから、頑張って踏ん張ったりしない。 「ホント、薫くんは裕ちゃんに甘いんだから」  僕、松宮裕那(まつみやゆうな)の隣に立っている高岡美波(たかおかみなみ)が呆れ顔で言う。 「てゆーかさ、裕那は体幹が弱えんだよ。もちっと鍛えろ」  斜め前に立つ岡沢弘康(おかざわひろやす)が笑いながら言った。揺れる車内でもシャキッと立っている弘康の体幹は強そうである。 「まあ、弘康と比べたら大抵みんな弱いだろ」  僕を支えてくれた腕の主、朝比奈薫(あさひなかおる)が静かに言った。 「そういう薫くんは弘くんと同じくらい強いじゃない。ねえ裕ちゃん」  美波が僕の方を向いて同意を求めた。僕はうんうんと頷く。  そうこうしている間に電車は次の駅をアナウンスし、徐々にスピードを落としていった。  電車が駅に滑り込みドアが開いた。  いつも僕たちが降りる辺りには他の場所より多くの人々が並んでいる。そこが階段からのルートとして便利な乗車位置である、というのもあると思う。でもその行列の中には実は乗らない人も並んでいるし、少し離れた所で数人で集まってこちらを見ているグループがいたりもする。  乗車とは別の目的があるのだ。    僕たちが4人でいる時は、だいたいいつも弘康が最初に降りる。次に美波。それから僕で最後が薫。  弘康は、刈り込んだ真っ黒な短髪に目元涼やかな日本男児である。約2年前、中1の終わり頃までは僕とそんなに変わらないくらいの身長だったのに、今では見上げる高身長になった。家が道場で、幼い頃から武道を習っていることもあり、がっしりとしていて見るからに強そうな風貌である。  その屈強な弘康の後ろに可憐な美波が続く。さながら侍と姫君のよう。美波は、腰まで伸ばした真っ直ぐな黒髪と、気の強そうな大きな瞳が印象的な美少女である。弘康の背がぐんぐん伸びる前は、美波が僕たちの中では2番目に大きくて、まるで姉のように僕たちに接していた。あ、でも「姉のよう」は今でも同じか。  最後に降りる薫は、一言で表すなら眉目秀麗。すれ違う人が思わず振り返る事もしばしば。母親譲りの少し茶色がかった髪に、すらりとした長身。弘康の家の道場で鍛えられた肩が年々広くなり、美しい逆三角形のシルエットを形作っている。  そう、他の場所より行列が長い理由。乗りもしないのにホームに集まっている理由は、薫を、美波を、弘康を見たいという思いなのだ。あわよくば見るだけじゃなく、知り合いになれたら、連絡先が交換できたら、そういう願望が滲み出るような視線を僕は日々感じていた。  しかし、僕以外の3人はその視線たちにまるで気付いていないかのように無関心だったりする。関心はないけれど邪魔はされたくない、そういう意識を僕は時々3人から感じていた。  いつものように4人で駅を出て、美波を家まで送って行った。美波の家は駅から近い比較的新しい住宅街にあり、ガラスを多用した現代的な佇まいの美術館のような建物である。 「じゃ、30分後に迎えに来るからな」 「はーい」  自宅の門を開けながら美波が弘康に返事をした。  僕たちはこの後、薫の家で試験勉強をすることにしていた。  中等部最後の期末試験である。  僕たちの通っている私立咲桜学園は、幼稚舎から大学院まで揃っている学校法人で、僕たち4人は幼稚舎からずっと一緒に通っている。  美波と知り合ったのは幼稚舎の入園式だった。薫の後ろに隠れるように立っていた僕の所に寄ってきた美波は、驚いている僕に薫を指差しながら、 「王子さまみたいね」 と、内緒話みたいに囁いた。  弘康とは岡沢家まであと少し、という十字路で別れた。美波以外の3人の家は、昔からの古い住宅街のいわゆる「お屋敷町」と呼ばれているエリアに建っている。この辺りはどの家も大きくて、歴史を感じさせる趣きの建物である。  薫の家は、壁を這うオールドローズと立派なバルコニーが印象的な下見板張りの白い洋館で、その庭には周りに張り巡らされた煉瓦の塀で見えないのが残念なほど、バラを中心に一年中様々な花が咲き乱れている。  その薫の家を通り過ぎて、道路を挟んだ隣が僕の家だ。僕の家は白い漆喰壁に重たい瓦屋根の古い日本家屋で、庭には大きな松が植えられている。    数寄屋造りの門の潜り戸を抜けて、僕たちは敷地内に入った。薫には年々この潜り戸が窮屈になってきている。 「お帰りなさいませ、裕那さん、薫さん」  玄関の引き戸が開いて、住み込みの家政婦さんの幸子さんが顔を出した。  帰宅後すぐに薫の家に行くことになっている日は、薫は僕と一緒にうちに来て僕の支度ができるのを待っている。そして僕を伴って自宅に帰るのだ。  何もなければ、僕が門を潜り敷地内に入るのを確認してから薫は帰る。  駅から近いのは薫の家の方なので、わざわざ家を通り過ぎて送ってくれているのだ。  なぜなら。  僕は昔、誘拐されかけた事があるから。  学校からの帰り道、薫の家と僕の家の間の道で。  それは今から6年と半年と少し前。    初等部3年生の夏だった。
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