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電車通学にも学園生活にもすっかり慣れ、僕は油断していたんだと思う。それでも電車内は盗撮や痴漢に気をつけないといけないから、僕が美波と手を繋いでなるべくドアの横の仕切りの所に立ち、薫と弘康がそれをガードするように前に立つ、というポジションを守っていた。
これは今もあまり変わっていない。ただ、弘康が部活の都合で普段は一緒に下校しないのと、僕と美波が手を繋いでいないのが違うところである。
あの日もそうやって4人で電車で帰ってきた。
最寄駅で降りてほっとして、同時に暑さにぐったりした。
美波を送って、弘康と別れて、僕と薫はいつものように薫の家の門の前で「また後で」と言い合って別れた。
薫の家から僕の家の門までは、当時の僕の足でもほんの1分ほど。
そのたった1分の距離、しかも自分の家の目の前で、僕は攫われかけたのだ。
後ろから近付いてくる足音がした、と思ったら突然頭から何かを被せられた。
僕の記憶は一旦ここで途切れている。
ショックが大きすぎて記憶が飛んでしまっているんだろう、と医師には言われた。
僕のこの後の記憶は。
被せられていた布が外されて見えた、明るすぎて真っ白な世界。
暑いけれど涼しくて、やっと吸えた新鮮な空気。
甲高い防犯ブザーの音。
そして。
逆光で見た、僕の頬を両手で包み込んで覗き込んだ薫の、険しい顔と荒い息。それが、ほっとしたように息をつき、微笑んだかと思うとみるみるその双眸から涙が溢れ、僕を力いっぱい抱きしめた。
声を上げて泣く薫なんて、僕はこの時しか知らない。
戯れてきた犬に驚いて転びかけた僕を庇って、腕に三針縫う怪我をした時も薫は声を出さなかった。
その薫が声を上げて泣いていた。
ひとしきり泣いた薫は、僕に「ごめんな」と言った。僕はなぜ薫が謝るのか分からなかった。
今にして思えば、責任感の強い薫は自分が僕を門まで送らなかったからだと思ったのかもしれない。でももちろんそんな義務がある訳じゃないし、むしろ薫のおかげで僕は攫われずに済んだのだから、薫が謝る謂れなど何もなかったのだけれど。
それにあの事件で心も身体も傷付いたのは僕よりも薫の方だった。僕は足首に薫の指の痕が付いたくらいだったけど、薫はあちこち擦り剥いて、肩には大きな痣もできて、とても痛そうだった。
そして何よりも薫は事件をはっきり覚え過ぎていた。
そのおかげで犯人をすぐに捕まえることができたのだけれど、薫はよく眠れなくなった。眠ってもすぐに起きてしまう。そして僕の安否を確かめてほしいと母親の都さんに言ったのだそうだ。
それがあんまり続くので、困った都さんは僕の母に相談し、母は僕たちを一緒に寝かせる事を提案し、すぐに実行した。
その朝僕は、手のひらに重さを感じて目が覚めた。
目を開けると隣で薫が寝ていて驚いた。
薫は僕の手を握って眠っていた。
僕は、穏やかな寝息をたてる薫の天使のような寝顔を、夢の続きみたいな気分で眺めた。
少しすると、長い睫毛が揺れて薫が目を覚ました。同時に薫は僕の手を握った手に力を込めた。
「久しぶりに、ちゃんと寝た気がする」
「え?」
薫がまっすぐ僕を見て、柔らかく微笑んだ。あんまり綺麗で僕は唇を噛んだ。そして僕は薫の手を握り返した。
薫は少し言いにくそうに、
「この前のさ、裕那が誘拐されそうになった時の夢、見るんだ。それでよく眠れなくて……」
そう、少し掠れた声で言って視線を外した。僕たちの中で一番年長で、リーダー的な存在の薫が見せた弱さに僕は驚いた。
そして、薫だけに全てを背負わせてしまっているようで申し訳なかった。
でも、なぜだろう。
僕はこの時、少し嬉しかったのだ。
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