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5
「で、この長い方をこうして…」
薫の大きな手が、器用にネクタイを結んでいく。ゆっくりと丁寧に説明してくれているのに、どうしてだろう、全然頭に入ってこない。
耳から熱くなってますます胸がドキドキする。
「最後に少し整えて、これで出来上がりだ」
そう言って、薫が僕の両肩に手をかけた。僕はどんどん身体が熱くなっている気がして、それが薫に気付かれるんじゃないかと思い、気が気じゃなかった。
「あ、ありがと、薫」
どうにかそう言って、結んでもらったネクタイを上から見て、それからやっと鏡を見た。薫の手が僕の肩から離れていくのが見えた。身体の熱に気付かれたらどうしようと思っているのに、同時にその手に触れていてほしいと思った。
僕はどうかしてる。
チラリと盗み見た薫は腕時計を見ていた。
未だどくどくと早鐘を打っている心臓を落ち着かせようと、薫に気付かれないように深呼吸をした。でもそんな事ですぐに収まってなどくれない。自分の身体なのに僕の心臓は全然僕の思い通りにならない。
僕はどうなっちゃったんだろう。
唇を噛んで、あたふたとしながらハンガーに掛かっているブレザーを取ろうとした。妙にふわふわして、手が滑ってブレザーが床に落ちた。慌てて手を伸ばしたけど、僕より先に薫がブレザーを拾い上げ、
「ほら、裕那」
と、着せ掛けてくれる。
今まで何度も何度も何度も、数えきれないほどしてもらった事なのに、やたら恥ずかしかった。
でも嬉しかった。
嬉しかったけど顔を見られるのは恥ずかしかったから、前髪で隠れるように俯いていた。たぶん、いや確実に頬が赤い。
「裕那、クラス分け、教えてやろうか?」
「え?!」
思いがけない薫の言葉に、反射的に顔を上げてしまった。薫は少し驚いたように僕を見て、そして綺麗に微笑んだ。
「あ、そっか。薫、昨日学校で聞いてきたの?」
「そういうこと」
昨日薫は入学式の打ち合わせのために学園に行っていた。新入生代表で挨拶をするのだ。つまりは首席だった訳だけれど、それは特に驚くような事じゃなかった。
僕の試験の結果が良かったように、薫の結果もオソロシく良かったのだ。「人に教えると理解度が上がるからな。オレの成績が良かったのはある意味裕那のおかげだな」薫はそう言って笑った。
「でも薫、昨日はそんな事言ってなかったじゃん」
「そりゃあ一応口止めされてるからな」
ニヤリと笑った薫の視線がスッと僕の方に流れてきた。僕は無防備にそれを受けてしまった。再び鼓動が大きく跳ねた。
「じゃ、じゃあ言っちゃダメじゃんっ」
僕は普通を装えているだろうか。
「お前が黙ってれば平気さ。そもそも後数十分もすれば皆が知る情報だしな」
いつも通りの薫が応える。
僕だけが、なんかぐるぐるしてる。
「同じクラスだよ」
「…え?」
「オレとお前、同じクラス。聞こえてるか?」
薫が僕を覗き込みながら言った。
同じクラス。同じクラスって言ったよね?
一瞬遅れて言葉が頭に染み込んだ。
「った!やったー!ありがとう薫!」
僕は、僕を覗き込んで少し屈んだ薫に飛びついた。
「やった!やった!良かったーー!!」
テストの結果は僕史上最高だったけれど、自信があった訳じゃなかった。「いい線いってる」と思う楽観的な自分と「でもギリギリ足りないんじゃないか」と思う悲観的な自分が、入れ替わり立ち替わり現れては消えて、落ち着かない毎日だった。
ああ、よかった、よかった、よかっ
「良かったな、裕那」
薫の長い腕が、僕を抱きしめた。
おめでとう、と言われた気がする。
頭が真っ白になってよく聞こえなかった。
薫は腕をほどくと僕の頭をサラリと撫でた。
「お前の担任だった三木先生がさ、嬉しそうに「松宮くん頑張ってたもんねえ」って言って、うっかりオレにクラス表を見せたんだよ。で、見せてから、しまったって顔してさ」
そう言いながら薫は部屋を出て行く。
「だから弘康と美波のは知らない。じゃ、オレは下に降りてるから準備して来いよ。もうすぐ出る時間だ」
僕はするすると閉まる襖を、半ば呆然と見ていた。
心臓は、持久走の後のように忙しなく打ち、見なくても分かるくらい顔が紅潮しているのを感じた。うっすら涙も浮かんで、見慣れた自分の部屋が滲んで見えた。
僕はやっぱり何かおかしい。
ただのハグなのに。
嬉しい時、悲しい時、楽しい時、怖かった時も、当たり前のようにしてきた事なのに。さっきだって、嬉しくて抱きついたのは僕の方なのに。
背中に、頭に、薫の触れた感触が残ってる。
僕は薫の結んでくれたネクタイの上から胸を押さえた。
ここに心臓があるんだ、と身体が主張してくる。
その、身体からの声を、僕はどう受け取ればいいか分からなかった。
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