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大きなガラス窓から見下ろす通りの桜並木はすっかり葉桜になり、薄い緑色の葉を風に揺らしている。お向かいの家の庭には立派な八重桜の木があって、こちらは並木のソメイヨシノに遅れて今が満開である。僕には八重桜は桜餅が木にたくさんなっているように見えるのだけど、昔薫にそう言ったら「そうだな、見える見える」と言って、2人で笑い合った。
夕暮れにはまだ少し余裕のある時刻。学校帰りに僕たち4人は、家の最寄駅からほど近い馴染みの喫茶店に来ていた。カフェ、というには古めかしい、レトロなビルの2階にある喫茶店は、ケーキとコーヒーが美味しい僕たちのお気に入りの店である。
明日には新入生の体験入部が始まるので「4人で帰るのもしばらくないし」という事で美波の提案で寄っていく事になった。
その喫茶店のいつもの窓際のボックス席で、美波がメニューのケーキの写真とにらめっこをしていた。
「アップルパイと、いちごのタルトと、ガトーショコラで迷う…」
真剣な眼差しに、
「どれも美味しいもんね」
と僕が言うと、
「そうなのよー、うー、どうしようかなー」
と、さらに眉間のシワを深くした。
僕の向かい、美波の隣に座っている弘康がその様子を見て、美波の手からメニューをスッと抜き取った。
「分かった、分かった。じゃ、三つとも頼む。で、残った分は俺と裕那で食うから。いいよな?裕那」
「え?あ、うん、もちろん」
「よし、決まり」
そう言って笑った弘康が、店主を呼んで注文を伝えた。
「わー、ありがとう!弘くん!」
美波が胸の前でパチパチと手を叩いた。
「あ、裕ちゃんもね」
僕は密かに桜のロールケーキが気になっていたけれど、美波が嬉しそうにしているので良しとする。
ほどなくしてコーヒー二つとカフェオレ二つ、そしてケーキが三つ運ばれてきた。コーヒーは薫と弘康、カフェオレは美波と僕の前に、ケーキは三つとも美波の前に並べられた。ちなみに薫はあまり甘いものは食べない。
美波は手を合わせて「いただきます」と言ってフォークを取った。そしてまずはアップルパイにフォークをサクリと刺した。
「薫くんはもちろんクラス委員長でしょ?」
「もちろん、かどうかは置いておいて、委員長には選ばれたよ」
そう言いながら薫はカップに手を伸ばした。
僕は横目でその薫の大きな手を見ている。
今朝、僕のネクタイを結んでくれた、さっき揺れる電車内で僕を支えてくれた手。幼い頃から弘康と共に武道を習っている薫の手は、大きくて骨張っている。
こんな時、以前の僕はどのくらい薫を見ていたんだろう。
どんな顔をして、薫を見ていたんだろう。
考えれば考えるほど分からなくなる。分からなくなって、だから僕は薫の手を見ているのだけれど、それが不自然になっていないかと少し気がかりではある。
今朝、僕は薫に嘘をついた。
薫が迎えにくる時間を見計らって制服に着替え始めた。
廊下を歩く音を聞きながら、わざとネクタイを下手くそに結んだ。
「裕那、入っていいか?」
「あ、うん」
おはよう、と言いながら入ってきた薫の目が僕のネクタイに止まる。
「失敗?」
柔らかく問われて、胸の奥がちくりと痛んだ。
「…うん。薫、もっかい教えて?」
何度でも、教えてくれるんでしょ?
ちらりと薫を見上げながらネクタイを解いた。
薫がほんの少し驚いたような顔をした、気がした。でもそれは一瞬で、
「OK」
薫はそう言って微笑んだ。そしてこの前みたいに僕の後ろに立って、ゆっくり説明してくれる。
でも僕は鏡の中の薫ばかりを見ていた。
薫は手元を見ながらネクタイを結んでくれているから視線を上げない。僕は背中に薫の体温を感じながら、綺麗なその顔を見ていた。
低い声が鼓膜を揺らし、頬に薫の茶色い髪が僅かに触れる。
心臓はどくんどくんと忙しなく動いている。最近過剰労働だ、と心臓から苦情が出そうだ。
薫の手でキレイに結ばれたネクタイ。
もう出来ちゃった。
そう思いながら、ありがとうと言った。
「まあでも、クラスに元生徒会長がいるなら、その人材を遊ばせとく手はないよな」
弘康の声で我に返った。
弘康はコーヒーに角砂糖を溶かしている。弘康は見た目に反して存外甘党である。
「そうよね、私もそう思う」
美波がいちごのタルトの皿を目の前に移動させながら言った。
「ウチのクラスね、長の付く役職に就いた事のある人が少なくて、私、委員長になっちゃったのよ」
そして軽く頬を膨らませて、タルトにフォークを刺した。
「そっか。みなちゃん前に副委員長やってたし、副部長もやったもんね」
僕がそう言うと、美波がタルトを口に運びながら僕の方をじっと見た。
「そうよ、やったわよ。てゆーか、そう言う裕ちゃんは部長だったじゃない。ああもう、やんなっちゃう」
二口目のタルトを口に運んで、そのままフォークを咥えたままの美波が妙に可愛い。
「オレは美波は委員長とか向いてると思うぞ。華道部も美波のフォローが良かったから、裕那は部長やりやすかっただろう?」
そう言いながら、薫が僕を流し見た。
ドキリとした。
「美波は世話焼きだからなあ。薫もだけど。そういうヤツが委員長とかやるのがいいんだよ、やっぱ」
弘康がそう言いながら、カップを傾けた。
2人からの言葉を聞いた美波は、まんざらでもない顔をしていた。
ほんの少し頬がピンク色に色付いている。
そして次はガトーショコラに向き合った。
「おい美波、他二つはもういいのか?」
弘康がケーキの皿を指差しながら訊くと、
「うん。満足」
と、美波が嬉しそうに答えた。弘康は「そうか、そうか」と頷きながら、目で僕に「どっちにする?」と訊いてくる。僕がいちごのタルトを指差すと、皿を僕の方に寄越した。
弘康だって充分世話焼きだと僕は思う。というか、3人とも面倒見が良いのだ。僕はずっとその恩恵にあずかっている。
「薫くんは高等部でも部活はやらないの?」
美波がチラリと薫を見上げながら言った。
「生徒会の雑用をやることになったからな。またしても」
薫がカップを置きながら応えた。
「あの雑用係という名の役員養成システムね」
美波がフォークを置いて、カップに指をかけた。そして一度唇にクッと力を入れた。そして少し改まった様子で口を開いた。
「私ね、高等部では写真部に入ることにしたの」
「え?」
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