佃煮と言えば「イナゴ」

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佃煮と言えば「イナゴ」

 最近、生まれて初めてイナゴの佃煮を食べてしまった。  私の祖父母の家は信州にある。つまり食虫文化が受け継がれ(忌々しくも残ってしまっているとも言う)ている地域なため、駅前のスーパーにふらりと寄ってみれば、御総菜コーナーに小魚よろしくイナゴが我が物顔で陳列されている。ついで言えば蜂の子も一緒に置いてあるのだけど、蜂の子はイナゴの三倍くらいの値段がする。  地元では普通の光景とは言え、好んでイナゴの佃煮を食べる人はいないだろうし、まして値段が高くて見た目も良くない(まんま幼虫)の蜂の子なんて誰が食べるのだろうか。薄暗いスーパーの端っこに陣取る茶色い彼らを見るたびに、私は恒例行事のように首を傾げる。  イナゴとは簡単に言えばバッタだ。稲について葉っぱを食べるバッタだ。夏から秋にかけて田んぼに入れば、沢山捕まえることが出来る  一つ問いかけたい。バッタを見て美味しそう!と素直に思える人間はいるのだろうか。  私はそうは思えない。あくまで彼らは小学生が下校中に捕まえる虫であり、大抵は虫かごの中でカマキリの餌になる虫なのだ。イナゴが美味しそう!なんて正気の沙汰じゃない……。  こうやって、食虫文化に文句をつけると、地元の人に鍬やら鎌やら槌やらで袋叩きに逢いかねないし、そうなってしまえば私の周りが赤く染まってしまうことは確実なので、あまり大きな声で主張するのは控えなければならない。あぶないあぶない。  イナゴもエビも虫みたいなものだから、大して変わらないでしょ、と祖母は言う。歯の隙間にイナゴの後ろ脚を覗かせながら。  まぁ、分類的には近い存在だから、その言い分は分からないわけでも無いけれど、理屈と感情は違うのだ。  虫は虫、海鮮は海鮮、私は私なのだ。  とはいえ、世の中の事を知らないのは幾分か勝手が悪い。法律を知らないからと言って、法で裁かれないわけでは無いし、二郎系ラーメンの注文方法が分からないからと言って、店員が優しく手を差し伸べてくれるとは限らないのだ。関係ないけれど、食券制の料理屋は本当に素晴らしいと思う。  一応受け継がれている文化なのだから、一度くらいは食べてみないと、いくら文句をいったところで有識者に鼻で笑われること間違いなしだ。  自分の心の中で小さな山と谷を何度も上り下りした挙句、私はイナゴを食べてみることにしたのだった。  茶色い虫が蠢く……は言い過ぎた。彼らは死んでいる。  茶色いイナゴが詰まったパックから小さいのを一匹つまみ、エイッと口に放り込む。  ……まぁ、期待外れだった。こればっかりは仕方ない。  虫っぽい味がするのかなぁ、と妙な期待をしていたけれど、噛めども噛めども醤油と砂糖の甘しょっぱい味が口の中に広がるだけで、固い脚くらいしか特筆することが無い。小魚の佃煮を食べているのと何ら変わらない。足が生えた小魚だった。これならイナゴである必要は無い。  ちょっぴりがっかりしたけれど、分かったことがある。  もしイナゴに変な味があったら、文化として残っていなかっただろうな、ということだ。  当たり障りない味だから食卓に残る。クセが無く、他を邪魔しない。もし、キツイ苦みとか鼻をつく青臭さとかがあったら、もの好きのオジサンたちだけが愛好する珍味になっていたに違いない。他の地域の人からすればイナゴも十分に珍味なのだろうけど。  ともあれ、イナゴくんたちがスーパーに置かれ続けているのには理由があるのだ。物流が発展した現代において、海なし県民がイナゴを食べ続ける必要は無いと思うけれど。  いや、佃煮にしているから、元の味なんて関係ないのか。あれだけ味を濃くしてしまえば最悪、ご飯のおかずにはなるのだ。いつの日か、ティッシュや段ボールを佃煮にしてごはんと食べる文化が出来ているのかもしれない。そのころの人類にセルロースを分解できる能力が備わっていることを祈るばかりだ。  とまぁ、イナゴの佃煮について適当こいてきたわけなのだけど、このエッセイはこれで終わりではない。不定期で続けていくつもりなのである。趣味、嗜好、身の回りであった小さなことまで、何か題材が見つかったら更新していくつもりだ。  もしお暇があれば付き合って欲しいというのが、私の本音だ。
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