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それは、その日ベッドに入って……明け方のことでした。
「奥様、旦那様がお戻りです」
奥様? 旦那様?
寝ぼけた頭でぼんやり3秒ほど考えて、そういえば昨日、自分が嫁いだことを思い出した。
「こちらです」
「あ、はい」
寝巻きのままシノに部屋から連れ出され、廊下を進んでいくと薄暗い中に人影が見えた。
「旦那様、奥様がお出迎えに」
シノはそれだけ残して消えてしまった。私は置いてきぼりにされてばかりです。聞こえないくらいの小さなため息をつくと、鉄臭さが鼻をついた。
──これは、血の臭いだ。
『仕事』の後なのでしょう。
「おかえりなさいませ」
1歩近づくと、背を向けられてしまった。
「ウィリアム様?」
「……起こして悪かったな。もう一度寝直せ」
「もう目が覚めてしまいました」
露骨な舌打ちが聞こえた。私に対してなのか、どこかで見ているだろうシノに対してなのかはわからないけれど。
「どこかお怪我はありませんか?」
私が歩み寄る度に、ウィリアム様は離れていく。
なんだというのでしょうか。ただ怪我の有無を確かめようとしているだけなのに──……。
私は一気に距離を詰めた。ウィリアム様が微かにたじろいだ気がして──チャンスだと思ったので、そのままウィリアム様の首に抱きつきました。
「お怪我は、ありませんか?」
完全に夜が明けたのか、ウィリアム様の姿がはっきりと見えた。
──やっぱり、血だ。
頬に赤い血がべっとりついており、黒かったであろう仕事着? も、赤く染まっていました。
「……着替えるから、離せ」
「はい」
素直に離れると、ウィリアム様がパチンと指を鳴らした。
「お呼びですか」
シノがわかりやすく、天井から降ってきたように見えた。
「湯浴みをさせてやれ。あと着替えもだ」
「かしこまりました。では奥様、こちらへ」
「はい」
踵を返した後、私は思い出して振り返った。
「お怪我がなくて、なによりです」
ウィリアム様は、しかめっ面でこう言った。
「お前はとんでもない女だな」
ちょっと何を言ってるのかわかりませんでした。
湯浴みをして、着替えをしました。先程も言った通り、寝直す気分ではなかったからです。
青いドレスを身にまとい、鏡の前に座る。
「奥様はお化粧の必要がございませんね」
「え」
シノは化粧品をしまい、後ろに立って、私の髪を梳かし始めた。
お金がなくて伸ばしっぱなしの髪はすごく傷んでいるだろうな、と、ぼんやりと鏡の中のシノを見つめていた。
「綺麗な髪ですね」
と、シノが呟いた。
「お世辞はいいですよ。ずっと放っておいたのだから、そんなはずないです」
シノは淡々と言った。
「わたしは嘘やお世辞の類は好みません。事実を申し上げただけです」
私はこのとき思った。
この人、話しづらい……と(といっても、見目を馬鹿にされ、罵られてばかりいたから、まともな会話をしたのは久方ぶりなのだけれど)。
「奥様は……変なお方ですね」
ウィリアム様といいシノといい、なぜそんなことを言うのでしょう──?
「どこらへんが変ですか?」
シノは髪を梳かすのを止め、持っていた櫛を振りかぶった。当然避ける。
ああ……座ってる椅子が欠ける音がしました……。
「奥様は、武道や実戦などのご経験は?」
「無いですね」
「ならここら辺ですね。普通なら、急に背後から殴りかかられたら、まず気づかないか動けないか──動けたとしてもせいぜい頭を庇うのが精一杯……という方が多いかと」
私は言いました。
「鏡に映ってたら見えるでしょう? 誰だって動けますよ」
「そういうところです」
言ってる意味がわかりませんでした。
「お仕えしている方に向かって──わたしは全力で殴ることはしませんが、それでも、今わたしは素人の男性よりも、はるかに速く殴りかかりましたよ」
「速く?」
「ええ」
──速く? 本当に?
「……乱れてしまいましたね」
そう言って、シノは再び髪を梳かし始めた。
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