送り犬

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「だめだ」  ぐっと押しのけられたと思った途端、背後からにゅっと手が伸びてきた。  瞬間、黄金色のべっこう飴は、犬のような面を着けた青年にひったくられてしまった。尖った犬歯の覗く大きな口が飴をバリボリと噛み砕かれる。なすすべもなく見守ることしかできない私は、その凄まじい音に思わず、飴のついていた割り箸まで食べてしまったのではないかと思った。  狐の店主が悔しそうに舌打ちをしたのが聞こえたが、すでに青年は興味を失ったようにくるりと店に背をむけている。面の奥のその瞳はじっとこちらを見ているようであった。初めて見る青年であった。  だが、彼は私を知っているようだっだし、田舎では『こちらの記憶にはないが自分のおしめを替えた』という知り合いが何人もいるものなのである。彼もきっと、そういう知り合いなのであろう。  青年は私の目線に合わせてしゃがむと、幼子に言い聞かせるように(まさしく、そうだったのであるが)優しい声でゆっくり言った。 「坊、今夜はカレーなんだろう。こんなところで買い食いなんてしたら、ミヨちゃんがっかりするぞ」  そうであった。  今夜は、祖母が私の好物のカレーを作っているのである。  私が喜ぶようにと人参を星型に型抜きしていたことを思い出した。  とたんに夜店に惹かれる気持ちははじけとんで消え、勝手に家を飛び出してきたことを思い出した。夕闇がもうそこまで来ている。日が暮れてから、しかもこんなところまで一人で来てしまったのは初めてで、私は急にとても恐ろしくなってしまった。 「夕飯に間に合うように、ウチへ帰ろうな」   泣きそうになりながらこくりと頷くと、青年はエラいぞ、と私の頬を掻くように撫でると慰めるように言った。 「飴は、また今度来た時に買ってやろうな」  飴が欲しかったので泣いてるのではないのだが。  うん、というと彼はまたエライぞと頭をグリグリ撫で、私の手を握ると、人混みに逆らってゆっくり歩きだした。キラキラした参道を見るとやはり名残惜しい気もしたが、この青年の低い落ち着いた声を聞いていると「今日は帰ろう」と思えるから不思議だ。  鬼の面、天狗の面、狐、猫、兎の面々。  すれちがう人々は、大きい影も小さい影も面の端からこぼれるほどの笑みを浮かべて、参道へ、そして奥の社へと楽しそうに歩いていく。時々私と同じくらい小さい影が手を振ったり、おいでおいでをする。つい追いかけそうになるのだが、そのたびに彼が「坊、」と呼ぶ。しっかり握った手のせいで、戻ることはできない。  からからと楽しそうな声がだんだんと遠のいていくのを背中で感じながら私達は無言で山道を下っていく。行く時と違って灯は消え、空気はひんやりとしていたが繋いだ青年の手は温かく、不思議と怖い気持ちは起きなかった。 「サ、着いたぞ」  ぽん、と背中を押され前につんのめる。  気がつくと私は、家の便所の横にぽつんと立っていた。祖母が作る甘口のカレーの匂いがする。祖父たちの慌てたような声が聞こえた。がらがらと戸が開き、転がりだすようにでてきた老人たちが、立ちすくむ私を見つけてこちらへ駆けてくるのがわかった。 「あッ、いたぞぅ」 「ナァンダ、ションベンかィ」 「今度からちゃんとションベンだっつうんだゾ」 「うんにゃァ、ひとりで行けラァな」 「それで迷子になったんじゃしょうがねえべ」 「便所のほうも見たんだがなァ…・・・」  祖母にはよかったよかったと抱きしめられ、祖父には「見つからんかったら山狩りになるところだったぞ」と軽いゲンコツをもらった。  私がいなくなったのはほんの十分ほどだったらしい。いつのまにか姿が見えなくなったうえに家の中にもおらず、まさか外に、と近所に探しに行くところだったのだ。  振り向いても、もちろん祖父母の家の裏山へ続く獣道に石灯籠など無く、ただ蔦の絡んだ木々が黒々と影を落としている。私を連れ帰ってくれた青年もいない。ぼんやりのしている私を置いて、早くも老人たちは家に戻ろうとしていた。    夢だったのだろうか。  その時、背後から私をぐっと押しのけるようにのっそりと何かが現れた。  大きな犬、――口の周りを飴でベトベトにしたポチだった。  ポチは、困惑している私をじっと見つめると、まるで興味がないというような顔をして自身の口の周りをべろりと舐めた。そしてフン、と短く鼻息を吹いてからゆっくりと自分の小屋に戻っていった。  この、狼のように大きな口の犬が、私はずっと怖かったのだが、恐れず触れるようになり且つ一番の仲良しになったのはその日からのことである。
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