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片翼の彼と
翼は呪いの残痕か、それとも祝いの象徴か。
彼の背中には大きな傷があった。右の肩甲骨の内側、縦に伸びる20cmほどの古傷。浴室で初めて目の当たりにした時のこと、そのあまりに鮮烈さに、
「これ……」
と、驚きの声が漏れ出てしまった。指先で縦になぞると、彼は振り返って不思議そうな表情を浮かべ、あっけらかんと問い返してきた。
「ん、なんか付いてる?」
どうやら、彼にはその傷が見えていないようだった。
そんなはずはないと思い、スマホのカメラを向けシャッターを切ってみたこともある。「急に何!?」とうろたえる彼をよそに、液晶に映る写真を見て私は愕然とした。背中はまっさらで、傷などどこにも映っていなかった。どうやらコレは私の肉眼でしか捉えられない傷跡らしい。
彼にはかつて片翼があったのかもしれない。
そう思うようになったのは、幼い頃に絵本で見たおとぎ話を思い出したからだ。魔女の呪いで白鳥に変えられてしまった6人の王子を末の妹が救い出す話だ。呪いを解くために、妹は話すことも笑うことも許されずに植物の茎でひたすらシャツを編む。6年後の約束の日、王子らはシャツをまとって人間に戻れることになるが、末弟のシャツだけは片袖が間に合わず、彼には片翼が残ったという。
「もしかして、かつて呪われてたりした?」
私はこんな妙なことまで聞いてしまった。幻の傷跡をめぐっては何かと突飛なことを言い出す私に、彼もすっかり慣れてしまっていた。
「ないよ、呪いなんて、ぜーんぜん、ない」
滅多に怒らない穏やかな人だ。仕事に真面目で友人もそれなりにいる。サイクリングとロールプレイングゲームが好き。今のところ浮気はしてなさそうだけど、道行くセクシーな女性のことはしっかり横目で追っているのを知っている。どこからどう見ても普通、むしろ何でも自分でこなせる十全な人。呪われてなどいるはずがない。
「ねえ、いったい私のどこが好きなの?」
「んー、よく喋るし、よく笑うところ」
ありふれた質問、ありふれた返答。彼の言う通り、私はよく喋るしよく笑う。そして残念ながらシャツを縫ったりはできない。彼が呪われていない以上に、私はきっと献身的な姫ではない。
それでも、あの傷を前にすると不思議なことに、片袖くらいなら黙って縫ってやろうくらいの気になってきたのだ。そう思えるようになるまでに、それなりの年数は必要だったが。
大きなステンドグラスの下、ヴェールを上げる彼の手はひどくたどたどしく見えた。たぶん片翼だった彼は、私の着る袖のないドレスを今どんな気持ちで見ているだろうか。
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