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仕事一筋で生きてきた私唯一の誤りは、彼と出会ってしまったことだ。
運命と呼べるほど優しくはなく、偶然と呼べるほどに辛い。
――――夜。
カーテンで月光を隠し、照明を落とした静かな部屋。
ベッドに横たわる私。そこに覆い被さる彼。
「カナエさん……」
「……お願い……ちょっと待って」
唇を唇で塞がれ、瞳を閉じる。
私の学生時代は学業のみだった。中学高校はもちろん色恋沙汰に一切手を出さず耳を貸さず。
何処へでも参考書を持ち歩き、何処でも机と椅子さえあれば勉強をした。
学生の本分は学業である。色香に惑わされてそれを疎かにするようでは社会に出て立派な成人としてやってはいけない。
その甲斐あって、名門大学のエリートコースに進学ができた。
大学生活も順調で大学院生にもなれたが私は就職を選択した。
早く自分の能力でお金を稼ぎ、自律した一人の成人になりたかったからだ。
就職先はもちろん広告業界最大手の超大企業。
給料は良かったが、残業はヒドかった。
しかしそれにもめげず、女であることを時に揶揄にもされてば時に武器にもし、飛ぶ鳥を落とす勢いで出世街道をひた進んだ。
二十代にして初の部長。三十代にして初の取締役。
振り返っても同期や同僚は誰も追いついていなかったが、自信と自負が二本の足となって私を奮い立たせた。
しかし。いや、だからなのだろうか。
自分での気が付かないうちに抱え込んだ孤独な冷たい風船が、静かに臨界を迎えてしまったのは。
彼と出会ったのはその頃だった。
どこで? どうやって? そんな事すら記憶できないほどの衝撃。
もはやどんな男性も近寄り難いほどの武装をした私の心に彼の言葉は突き刺さった。
「カナエさんは頑張ったんですね、もう休んでもいいと思いますよ?」
屈託のない笑顔と、幼さの残る中性的な男声。
一瞬、ほんの一瞬。
彼の言葉を受け入れ、休もうかと甘んじてしまった瞬間に、冷たい風船が破裂した。
彼の胸に倒れ込み、彼の腕に包まれて、わがままを言う子供のようにむせび泣いた。
こんな惨めな私を彼は嫌な顔せず受け入れてくれた。それが嬉しくてまた涙が溢れた。
軋むベッドの音。私の微かな抵抗に、彼もようやく気が付いた。
「カナエさん、初めてなんですね」
「…………言わせないで。私もう八十なのよ」
老人ホームの一室、シワだらけの顔を真っ赤にして介護士の彼へそう告げた。
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