土足で転がり込む非日常

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土足で転がり込む非日常

 楽しいことなんて金曜日の夕飯ぐらいだった。会社を出たその足で電車に飛び乗って、スーパーで好きなお惣菜を買って帰る。どうせ誰もこないから、玄関先に転がったパンプスはそのままで大丈夫。カバンをソファに投げ込んだら手洗いうがい。ここで座り込んでしまうと、どうもスマホをいじって動けなくなってしまう。夕飯はレンジと電気ケトルがあれば大丈夫。適当なバラエティを眺めつつ箸を進めて開放感と安堵感にしばし酔いしれて、面倒な風呂を乗り越えてベッドになだれ込み、全体重を預ける姿勢でSNSを眺める。対して興味もない情報を次々眺めているうちに日付を越えており、慌てて電気を消す。  ごちゃごちゃと騒がしい脳内が睡魔によって鎮圧されていく。眠りにつく前の脳内会議も、もう随分と繰り返した気がする。  小さなIT企業で働く私、笹田沙良(ささだ さら)は、社会人になってからというもの常に疲労困憊の日々を送っている。無責任に投げられる仕事に板挟みな人間関係。仕事に押し流されてすっかり彩りを無くした私生活。愚痴を言おうにも数少ない友人は次々と結婚して会い辛くなってしまっているし、SNSを眺めても自分が惨めに思えてしまい億劫になるだけだった。  まさかこんな未来が待っているなんて。その日その日を生き抜くだけで精一杯の私は、気づけは30代目前に差し掛かっていた。どこで選択肢を間違えてしまったのだろうか。そんな想いがつきまとい始めた12月中旬のことだった。  いつものように週末の買い出しに向かうと、駅前でクリスマスマーケットが開かれていた。キラキラとした装飾に一瞬目を奪われるが、「自分には関係ないけど」と通り過ぎる。しかし、ある一角が目に留まった。そこには、数々のワインが販売されていた。 「……世界の、掘り出し物ワイン?」 「お姉さん、よかったら見てってよ!ここらじゃなかなかお目にかかれない代物ばっかりだからさ!」  圧の強い店主に足を止めてしまったことに後悔したが、確かに相手の言う通りあまりこの辺りでは見ないデザインのボトルが並んでいた。なんとなくそれらを見比べていると、ラベルが赤いスワロフスキーで装飾されたボトルが目に入る。値札には「5000円」と書かれており、普段口にするものよりは高価だが決して手が出ないほどではないと感じた。ボトルを眺めながら年末の出費についてしばし思案し、やがて観念したように購入を決意した。  それからはいつも通りの買い物を済ませ、家路へ着く。初手にワインなんて買うんじゃなかった。すっかり紐が食い込んだ手には赤い跡が残っていた。  買ったものをがさがさと冷蔵庫にしまい込み、時計を見ると18時を指していた。早めの夕飯にしてしまおうかとレンジを開け、買ってきたばかりの惣菜を温める。それを待っている間に一人分のワイングラスと先ほど購入したワインボトルをテーブルの上に用意した。タイミングを見計らったように音が鳴ったレンジの様子を見に行き、すっかり温まったビーフシチューをミトンで掴む。簡易的な食卓が出来上がった所で席に着き、ワインボトルに手をかけた。  ボトルの栓を抜いてグラスに注ぐと芳醇な香りが辺りに漂う。期待を胸にグラスを傾けてワインを口に含んだ瞬間、突然強烈な眠気に襲われた。渋み、苦味、といった刺激すら霞むほど急速に遠のく意識の中、今にも閉じそうな瞼の隙間で牙の生えた男が笑う顔が見える。 「幾年と待った」  男の牙が手首に突き刺さる。薄れゆく意識の中で鈍い違和感が走ったその瞬間、男のぼやくような声が耳に届いた。
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