土足で転がり込む非日常

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 男の言い分はこうだ。彼は吸血鬼であり、転々とワインボトルに取り憑いては持ち主の意識を奪い、血を吸って生活をしていた。富裕層の健康な血を求めて取り憑くワインは高級品ばかりであったが、ある日貨物船で誤って安価なワインに取り憑いてしまい、それに気づかぬまま流れに流れて私の元へ来てしまったとのことだった。  私が半信半疑ながら「じゃあもっと高級なワインに取り憑き直してください」と言うと、男は静かに首を横に振った。栓を開けた時に感じた鮮烈な眠気は魔術であり、再度同じことをするにはもっと血を口にして魔力をつけなければならないためそれは出来ないという。  突然飛び出してきた突拍子もない話に目眩がする。そんなファンタジーな言い訳は私のような大人に対して使うのは悪手だろうと考えたが、男と出会ってからここまでの短い時間の中で、数々の不思議な体験をしたこともまた事実だった。  男は相変わらずうな垂れたままぴくりとも動かない。膠着状態の中、私はためらいがちに再度口を開いた。 「そんな話、信じられません」  きっぱりと告げると、男はゆっくりと立ち上がり距離を縮めてきた。一気に緊張が高まり、咄嗟にスマホを強く握りしめる。すると男はその手首を掴み自身の目線まで持ち上げた。その衝撃でスマホは床に落下し、唯一の連絡手段が閉ざされ目の前が真っ暗になる。 「は、離して!」  長い爪で飾られた男の指が沙良の肌をやわく撫でる。噛みつかれる、そう確信した沙良は恐怖にぎゅっと目を瞑ってその時を待った。 「……悪かった」  頭上から降り注いだ想像と違う言葉に沙良が顔を上げると、そこにはばつの悪そうな顔で立ちすくむ男の姿があった。男が手首を離すと、沙良は急いで自身の腕を引き寄せた。掴まれていた場所を確認し、そして驚きに息を飲む。 「え、怪我が治ってる!?」  先ほど噛まれて出来た痛々しい傷跡がまっさらに消えていた。もう一度男の顔を見上げると、やはり居心地の悪そうな目と視線が交わった。  妙なことばかり起こる現実に、目の前の吸血鬼の存在を認めざるを得なくなる。  深く息を吸い、吐き出す。後ろ手に回していた腕を戻し、まっすぐ男の顔を見つめる。 「……もう少しだけ、話を聞きます」 そして意を決し、もう一度話し合うことを提案した。  リビングへ戻り、距離をとった上で改めて向き合う。男は「カベルネ」と名乗った。カベルネは行く先がないことを告げ、それを踏まえた上で一つの提案を持ちかけてきた。 「貴様の血の味はひどい。ひどく健康が損なわれた味がする」 「それがお願いする態度ですか!? それに私さっき笹田沙良って名乗りましたよね!?」  あまりにも歯に衣着せぬ物言いに思わず反論が飛び出す。しかしカベルネは毅然とした態度を崩さず、まるで自分こそが被害者だと言い張るような太々しさで言葉を返してきた。 「こちらは久方ぶりの食事を台無しにされたんだぞ!?」 「それは私だって同じですよ!夕食どきにこんな……」 「夕食時?」 「そうですよ……テーブルの上にあるじゃないですか」  ほら、と沙良がテーブルを指さすと、カベルネはテーブルに近づき、すっかり冷めてしまったビーフシチューを持ち上げた。 「なんだこの皿は…紙、か? おい、サラダは? スープはどこだ」 「OLの一人暮らしにそこまで求めないでくださいよ……」 「……やはり、私の想定どおりだな」 「はい?」  カベルネはビーフシチューを卓上に戻すと、沙良に近付きしげしげと顔を見た。居心地の悪さに視線を逸らす沙良の頬に手を添え、そしてそっと下まぶたを親指でなぞる。その刺激に沙良の身体がびくっと震えた。 「な、にしてるんですか」  突然の至近距離に思わず声が上ずる。よくよく見た男の顔は月明かりのような青白さをたたえ、切れ長の目も相まってシャープな印象だった。普段あまり目にすることのないような、まるで作り物のような造形に見とれていたのも束の間、次にカベルネの口から発せられたのは深いため息だった。  急に顔を撫でてきたと思えばため息をついた眼前の男に沙良が呆然としていると、カベルネは続けて「やはりな」と呟いた。  どこか呆れたようなその目に、沙良のこめかみが僅かに動く。 「ちょっと……状況が全然読めないんですけど」 「健康状態が壊滅的だな。食生活はもとより、睡眠にも問題があるだろう。だが、私が来たからにはもう安心だ! 少量の血を頂く代わりに、君の健康管理してやろう!」 「……はあ?」  そんな条件飲む馬鹿が居ると思っているんですか、とつっぱねる沙良を横目にカベルネは自信満々といった様子で続ける。 「1日。試しに1日私をここに置いてみればいい。きっと君の考えが変わることだろう」  沙良は先ほどカベルネが触れた手首に触れてもう一度傷が消えていることを確かめた。そして眼前にいる、やけに自信満々な表情で腕組みをする吸血鬼を一瞥し、警察に説明する道筋を立てている間くらいは仕方ないから置いておこうとしぶしぶ条件を飲んだ。  始めて出会ったこの時は、この後予想をはるか上に行くカベルネの手料理の数々に胃袋を掴まれ、奇妙な同棲がスタートするとは露ほども思っていなかった。
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