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黒猫と声
その黒猫に名前は特になく、いわゆる野良猫という奴だった。
ふぁ、と欠伸をしながら住宅街の塀の上を散歩するのが彼の日課であり、今日も昼間からその日課に興じていた。
ふと彼の視界が一人の人間を捉える。
彼は立ち止まり、じっとその人間を観察した。
長い黒髪の人間の女性は、キョロキョロと周囲を見回しているようで、もしや自分を探しているのかと猫は見当違いの警戒をする。
「ーーーーーー」
人間が何か言うが、猫である彼に人間の言葉は理解できなかった。
ただ少なくとも自分に向けて発せられた言葉ではないようで、猫は少しだけ警戒心を緩める。
と、その人間と彼の視線があった。
互いに固まり数秒が流れ、人間のほうが猫にさして興味もないように顔を背ける。
猫はと言うと、未だその場に留まり人間の動向を見守っていた。
そのうち人間はゆっくりと歩き始め、何かを探すように忙しなく、首を左右に振る。
特に用事もなく、暇そのものであった猫は人間に興味を持ち、一定の距離を保ちながらその人間に付いていった。
そこからの人間の行動は、猫から見て実に奇妙なものであった。
ゆっくりとある程度の距離を歩いたかと思うと、立ち止まり何か声を発しながら辺りを見回す。まるで食べ物を探している時の自分みたいだと猫は思った。
最近では餌をくれる人間も減ってしまった。代わりに野生の虫を食う機会は増えたので、食べ物に困っているわけではないが。
そんなことを思案していると道の角から人間の男が歩き出て来た。
人間の男と女は興味がないのか、互いの顔を見ることもなく、言葉を交わすこともなくすれ違う。
猫は男を警戒し再び距離をとるが、男も女と同様に猫に興味を示さず、そのまま別の方向に歩き去って行った。
猫が人間の女に付いて行って、一時間ほどが経過した。
途中、あの男の後にも数人の人間と会ったが全員が人間の女にも猫にも興味なさそうに、その場を去っていった。
さすがに少し飽きてきた猫は人間の女に付いていきながら空を見上げる。
人間の街のところどころから上がる煙が空を覆い隠し、陽の光は遮られ薄暗い。
そろそろ帰ろうか、と猫が踵を返すと、どこからともなく騒がしい足音が聞こえた。
人間の男と、人間の女の子供が一人、こちらに向かって走ってきている。
今ついて行っている人間や、すれ違った人間のゆったりとした不規則な歩みではなく、駆け足で。
「ーーーーーー」
猫が走っている人間に気を取られていると、不意に背後から声が聞こえた。
すぐ様、猫が振り返ると人間の女は身体を正面に向けたまま、後ろから走ってくる人間たちを見ていた。
首を、180度回転させて。
不気味にねじ曲がった首の皮膚は千切れ、ところどころから肉が見える。
その異形にさすがに不気味なものを覚えた猫は、地面から飛び跳ね塀の上に登る。
走ってきた人間たちは、首が真後ろに曲がった女を見て慌てて立ち止まる。が、次の瞬間には女が二人に飛びかかっていた。
女が歯を突き立てると、男が悲鳴のような声をあげる。
女の子供はその隣で泣きわめいていたが、やがて周りから集まってくる大勢の人間たちが二人に集り、数分の後には静かになった。
猫は一部始終を見届けて、その場を走り去る。
一体いつから、人間たちは共食いなんて真似をするようになったのだろうか。
猫がそんなことを知るはずもなく、自らの住処に向かって歩き始める。
なんだか喉が、無性に痒い。
「ーーーーーー」
どこからか、再び聞こえたその声が自分から発せられていると、ついに猫は気がつくことはなかった。
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