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いらっしゃいませ。当店にお越しいただき、誠にありがとうございます。
では、こちらへどうぞ──。
◇ ◇ ◇
【1, 鳴海】
若者と言われなくなってから数年は経ったであろう風体の男性が、よれたスーツにコートも着ずに、雪がこぼれ落ちるのをどうにか留めている雲を仰ぎながら歩いている。時刻はもう夕刻から夜に差し掛かっていた。
男性はどこに行くでもなく、ただ歩く。或いは行き先を探しているのかも知れない。身体に寒いという感覚はあるが、もはやそれもどうでもよかった。痛みを感じなくなった心が、僅かながらに冷たさだけを覚えている。
どれくらいの時間を歩いたのか──いつの間にか、男性は知らない場所を彷徨っていた。静かで人通りもなくなっている。立ち並ぶ建物には明かりが灯っているが、自分を迎え入れるためではない。自分以外の誰かのために灯っているのが物悲しい。
歩き疲れた男性がふと足を止めると、レトロな扉を趣のある照明が照らす店があった。看板を見ると『Cafe & Bar』とだけ書いてある。安いチェーン店のカフェや居酒屋に行くのがせいぜいだった男性は、扉に手をかけようとして躊躇した。それでも何故かこの扉が暖かい気がして──自分を受け入れてくれるような気がして、ゆっくりと扉を開けた。
「いらっしゃいませ。初めてのお客様ですね?」
その店の扉を開けると、黒服の老齢な紳士が出迎える。店内はカウンター席と数個のテーブル席があり、落ち着いた装飾のインテリアで整えられていた。カウンターの奥にはリキュール類、壁の棚にはコーヒー豆、ハーブ、紅茶などが所狭しと並んでいる。
「はい。あの、僕……」
男性は紳士が出迎えるような店に入店した事を少し後悔した。今までの人生でそんな店には縁がなく、どうやって席に着いていいのかもわからない。
「ここはお好きなお飲み物を飲みながら、ゆっくりしていただく場所でございます」
男性の緊張した様子に紳士はやさしく微笑んで言うと、オーナーの添木と名乗り、窓際の席へと案内した。窓の外は降り始めた雪がうっすらと積もり始めていて、街灯の明かりが散りばめたように細かに反射している。男性はさっきまで降っていなかったのに……と、帰りの心配をした。傘も持っておらず、コートすら着ていない。そもそも、帰る場所はあるのだろうか──?
「大丈夫ですよ。すぐにやむと思います」
男性の思考を遮るように、添木がテーブルに水を置きながら言う。
「そうですか、よかった」
男性は添木に促されて椅子に腰掛けると、先程まで途方に暮れていた事すら忘れて、暖かい安堵感で緊張もほぐれた。静かに降る雪すらもこの暖かさを引き立てるためのように思える。
「お待たせ致しました」
男性が安堵感に身を委ねていると、若いウェイトレスが添木の淹れたホットコーヒーを持って来た。
「あれ? 僕、注文しましたっけ?」
目の前に置かれたのは、苦味とまろやかさが絶妙にブレンドされた香り立つコーヒー──それは男性が知る限り最高の香りだった。これほど上等なコーヒーは初めてだというのに、懐かしさが込み上げる。その香りに包まれた男性は、きっと無意識にブレンドを注文したのだろうと思った。
「香歩です。他のお客様もいらっしゃらないので、よろしければ少しお話しませんか?」
香歩と名乗ったウェイトレスは、男性が返事をする間もなく向かいの席に腰を下ろした。
「あ。ぼったくりのキャバクラとは違いますから、安心してくださいね!」
生来の明るさを現すような香歩の笑顔に、不安を先読みされた男性は曖昧に笑みを返す。
「いえ、是非。鳴海と申します。僕のつまらない話でよければ聞いてくれますか?」
男性──鳴海は、ぽつりぽつりと話し始めた。
幼少期に好きだった絵本。母が編んでくれた手袋。遠足のお弁当に必ず入っていた甘い卵焼き──。何でだろう……ここに来るまで心の中は愚痴ばかりだったのに、このコーヒーをひと口飲む度、好きだった物、楽しかった記憶が蘇る。忘れていた……自分にこんなにも幸せだった記憶があるのだと。
小さな小さな幸せが沢山あった。年を重ね、大きな不幸や強い不満が、それらを記憶の奥底に沈めてしまっていたのだ。冷めないコーヒーが鳴海の身体を温める。揺らめくコーヒーの香りが鳴海の心を温める。
「僕、生きる意味を忘れていました」
仕事に失敗し、家庭も失い、もう何もないと思っていた。幸せなど、自分には縁がないと。
そうではなかった。幸せはどこにでもあるのだ。例えひとつひとつは小さくても、確かに幸せは存在する。どうして気づけなかったのか……長い間、暗闇の中にいるようだった。人生をやり直す気力すらなくして、自分は、自分は──……。
「鳴海さん?」
言葉を詰まらせた鳴海に香歩が声をかけると、鳴海の目から涙がこぼれる。
「あれ……? すみません、僕、何で……」
鳴海は涙を隠すようにコーヒーを飲み干す。空になったコーヒーカップからは、まだ豊かな香りが漂っていた。
「雪、やんだみたいですよ」
鳴海の涙に気付かない振りをして、香歩は窓の外を見る。
香歩の視線を追い鳴海も窓の外に目を向けると、白く広がる景色を月が明るく照らしていた。足跡を付けたい──鳴海は子どもの頃を思い出してそう思った。はしゃぎ回る事は流石にもうしないが、誰の足跡もないところに自分の足跡を残したい。母の編んだ手袋を着けていた、あの頃のように。
「早く行かないと、先越されちゃいますよ」
「そうですね」
香歩に再び心を読まれた事に気恥ずかしさはあったが、鳴海は正直に答える。もう自分に嘘を吐くのはやめよう。くだらないプライドなんか、捨ててしまおう──と。
「また、来ます」
「はい。お待ちしております」
香歩と添木に見送られ、鳴海は店をあとにした。そう言えば、会計は……? 思い出せない。見送られたのだから、ちゃんと支払ったのだろう。もし払い忘れていたら、次に来た時に払えばいい。
白い白い道を、鳴海は歩いて行く。誰の足跡も付いていない、白い道。楽しい……と思いながら鳴海は歩く。
鳴海の歩いた後ろに、彼の足跡は、付いていなかった──。
◇
「鳴海さん、幽体離脱で来るなんて、珍しいお客様でしたね。オーナー」
香歩は席の片付けをしながら、添木に話しかける。
「死にきれなかったんでしょうねぇ……しかし、あと数日の命でしょうから、次のご来店時はきちんと霊体でいらっしゃいますよ」
少し長い常連様になりそうですね──と、添木は言った。自ら命を絶った者が、幸せを胸に逝く事がどれ程難しいか。小さな幸せが大きな苦しみで傷付いた心を癒やすのは、容易くない。
「そろそろ次のお客様がおいでになりますよ。急いで片付けてくださいね」
「は~い」
添木に急かされた香歩は、ふわりと浮いてコーヒーカップと水のグラスを乗せたトレーをカウンターの裏に下げた。
◇ ◇ ◇
【2, 森村】
鳴海が去った後、入れ替わるように、白い髭をたくわえた男性が雪の上に足跡を付けずにやって来た。彼にも迷いながら通っていた頃があったが、今では真っ直ぐに辿り着く。いつから通っているのかは記憶にない。ずっと昔から通っているような、まだひと月も経っていないような気もする。この店に来るのは何度目だろうと思いながら、白い髭の男性は扉を開けた。
「いらっしゃいませ。森村様」
「こんばんは、マスター。今日も一杯お願いしますよ」
添木が丁寧に出迎えると、森村と呼ばれた白い髭の男性は、コートを脱ぎながらいつものカウンター席へと向かった。
「コートお預かりしますね」
香歩は雪の湿り気すらない品のいいコートを森村から受け取ると、コート掛けに掛ける。
「香歩さんはいつも気が利きますね。いいお嫁さんになれますよ」
「ありがとうございます!」
森村が目尻にシワを寄せて言うと、香歩は嬉しさのあまり、つい浮いてしまった。
「お客様の前でお行儀が悪いですよ。香歩さん」
「すみません!」
添木に注意された香歩は、直ぐさまスカートを押さえて床に降り立つ。こんなところも香歩のいいところではあるのだが──と、添木は軽く溜め息を吐いた。
森村は浮いた香歩に何の疑念も持たずに席に座る。いつもの指定席は、今日も森村を歓迎してくれているようだった。添木はカウンターの中に入り、綺麗に並べられたリキュールから数本選んで手に取る。棚に並んでライトアップされている色取り取りのリキュールは幻想的で、森村は夢の中にいるような錯覚を起こす。
森村は毎度カクテルを頼む。決まったカクテルではなく、その日だけの添木のオリジナルカクテルだ。好みを聞かれたわけではないのに、どのカクテルも森村の舌とノドを絶妙に潤してくれる。
添木がシェイカーを振る音が店内に響く。まるで音楽のように心地よい響きが森村の心を和ませた。カクテルに使われているリキュールの瓶がカウンターに並べられているが、どうしてかラベルが読み取れない。
「お待たせ致しました」
手際よくグラスに注がれたカクテルが、森村の前に置かれる。カクテルは今までに見た事もない不可思議な色をしていた。赤にも見え、青にも見え、虹色にも見える。もしかしたら透明なのかもしれない。ピックに刺してあるフルーツが宝石のように輝いている。
ひと口飲むと、若かりし日、最初に飲んだ酒を思い出した。缶ビールをひとり部屋で開けて飲んだ。旨いとは思えなかったが、やっと大人になれたと喜んだ気がする。あの日は……そうだ。今日のように雪が降っていた。寒い中窓を開け、白い息を吐きながら苦いビールを少しずつ飲んだが、飲みきれず残してしまったんだったな──と、若かった自分に思いを馳せる。
ふた口目を飲んだら、晴れ渡る初夏の空の下、妻に出逢った時の事を思い出した。公園のベンチで本を読んでいた彼女の、風で飛ばされた帽子を拾って渡したのがきっかけで、いつしか惹かれ合うようになっていったのだ。
更にひと口飲むと、プロポーズした時を思い出す。星の降る夜──流星群を見ながら、指輪を渡した。森村は頬を染めて指輪を受け取ってくれた妻を懐かしむ。妻は、妻は今どうしているだろう……?
「──マスター。今日こそ何のカクテルか教えて頂けませんか?」
森村の問いかけは、幾度となく聞こうとして、その度に忘れてしまうか、はぐらかされてしまうかだった。そしてその事を奇妙とも思わず、カクテルを飲み終える頃には満足して店を出ていたのだ。だが、今日こそは聞かなければならない気がした。否、答えて貰える気がした。
「森村様の人生をシェイクしたカクテルです──いい人生だったのですね」
添木が微笑みながらそう言うと、森村はもうひと口飲んで頷いた。
「……ああ、ああそうだった。辛い事も悲しい事もあったが、いい人生だった」
森村は晴れやかな笑顔に涙を一筋流し、カクテルを灯りに照らして愛おしそうに眺め、ゆっくりとグラスを空ける。最後にピックに刺してあるフルーツを食べると、目を背け続けていた現実と向き合えた。
そう、妻は先に逝っている。自分も、ようやくそこに逝けるのだ──と。
◇
「森村様は、もういらっしゃらないんですか?」
「そうですね。満足そうなお顔をしていましたから」
香歩が聞くと、添木は嬉しそうに返す。思い残す事がなくなり、行くべきところへ向かうだろうと。
「前から聞きたかったんですけど、オーナーって何者なんですか?」
ふいに香歩は不思議なドリンクを作る添木の正体が気になった。客は皆、添木のドリンクを飲んで幸せを思い出し、いつしか旅立ってゆく。
「もしかして──」
片付けが終わってカウンター席に座った香歩は、人の魂を導く添木の正体を仮定して、口に出そうとした。
その香歩に、添木はブレンドしたハーブティーを淹れて渡す。香歩の周囲の空間がハーブティーの香りに満たされ、香歩は何を言おうとしたのかを……言おうとした事さえ忘れてしまった。
香歩はハーブティーを冷ましながら口に運ぶ。鳴海のコーヒーや森村のカクテルと同じように、そのハーブティーは香歩に小さな幸せを思い出させる。ほのかに香る花の香りは、幼い頃、公園で見付けた四つ葉のクローバーを思い出させた。一杯飲む度、ひとつだけしか思い出せない幸せな記憶。いつもそうだ。他の客のように、一杯でいくつも思い出す事は出来ない。ふと、香歩は自分がいつから、どうしてこの店で働いているのかと疑問に思ったが、それもハーブティーの香りがそっとかき消した。
「そろそろ閉めますよ」
「は~い」
香歩は名残惜しそうに最後のひと口を口に含み、暫し香りを楽しんだ。毎日思う同じ疑問は、もう心から消えている。その代わり、明日のお客様はどんな人だろう? 添木はどんなブレンドのドリンクを作るのだろう──そんな事を考えながら、香歩は笑顔で返事をした。
◇ ◇ ◇
ここは『浮遊霊カフェバー』。
行き場を見失った霊が、心に残った想いを整理する場所。
あなたの人生の思い出をブレンドして、従業員一同、心を込めておもてなし致します。
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