過去

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 小学生の時、僕が自転車を走行中に足を前輪に巻き込んで転んで、頭から血を出しながら家に帰ったことがあった。母は頭の血を見て一瞬固まったが、すぐタオルを持ってきて押さえてくれて、落ち着いて整形外科まで連れてってくれた。 『大丈夫、大丈夫だから』  僕は転んで頭から血が出た時、痛かったけど泣かなかった。泣いちゃダメだとどこかで思っていたのだろう。でも、家に帰って母の顔を見ると、涙が溢れた。エプロン姿のまま病院に連れていってくれて、自分が取り乱すことなく背中をさすって僕を安心させながら付き添ってくれた母。  このエピソードがあったので、母は強いんだと勝手に思っていた。どんなことがあっても取り乱すことなく、冷静に対処できる強い母親。  しかしそれは、誰にも相談せずにすべて1人で抱え込んでしまうという欠点でもあった。  おかしいなと思い始めたのは、いつも僕より早く起きて朝食やお弁当を作ってくれる母が、よく寝坊するようになったことだった。  専業主婦だった母は父と離婚してからスーパーでパートを始めた。最初は慣れない仕事で疲れているんだろうと思っていた。母の味方でいようと決めた僕は家事を積極的に手伝ったりして、母の負担を減らそうと協力していた。  近所に住んでいた母方の両親──僕にとっての祖父母も時々様子を見に来てくれたりして、それとなく上手くいっているように思えた。  これはあまりよくないなと思ったのは、朝学校に行く時「いってらっしゃい」とダイニングテーブルの椅子に座ったまま手を振って見送ってくれた時だ。顔色も優れないし疲れているのだろうと思っていたが、帰って来てもその場から動いた形跡がなかったのだ。色を失くした瞳でジーっと一点だけを見つめ、生きているのか死んでいるのかも分からないくらい、ジッとしていた。
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