松永

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松永

 楽器の演奏家は爪が短い人が多い。  男だし、別にネイルアートに大した思い入れもない。だけど、女の人の綺麗にマニキュアの塗られた爪を見て、なぜだか無性に羨ましく感じるときがある。  長い爪にきらきらした色を乗せて本のページを捲ったり、ただ手を目の前にかざして歩いたりするのは、とても楽しそうだと思う。  俺の短い爪と長い指にそんな自由はなく、ヴァイオリンを弾くことしかできないけど。  毎週、電車で片道二時間もかけてレッスンに通う。それくらい遠くに行かないと、有名な先生に教わることができない。  だけどそれでもまだ足りなくて、俺はもっと遠くへ行く。もうすぐ高校を退学して日本を出て、もっと有名な外国人の先生のもとで音楽の勉強をする予定だ。  好きでやっていることだから、別に苦ではない。だけどそれとは別に、自由を羨む俺だっているのだ。  放課後の廊下ですれ違った知らない女子の爪。綺麗な青空色で、思わずじっと見てしまう。誰かを待っているっぽい彼女は立ち止まっている俺に気づき、スマホから目線を上げてコテンと首を傾げた。 「……何?」 「爪、綺麗だね。いいな」  そう言うと、彼女はにっこり笑って自然な動作で俺の手を取った。 「こっち来て」  よくわからないまま連れて行かれた誰もいない教室で、彼女はポーチから透明な小瓶ややすりや他にもいろんな道具を出して、あっという間に俺の爪も同じ色にしてくれた。 「すごい、魔法みたいだ。ありがとう」 「えへへ。どういたしまして」  彼女は照れくさそうにも誇らしそうにも見える笑みを浮かべた。 「メグ、帰ろー」  廊下から誰かが彼女を呼んでいる。彼女は「ちょっと待ってぇ」と返事をしてから、俺にプラスチックの容器に入った液体をくれた。 「これ、除光液。魔法がとける液体でーす。あげるね。色落とすときにコットンと一緒に使ってね」  彼女も行ってしまい、一人になった教室で自分の手を目の前にかざしてみる。キラキラした青空が、俺の指先に広がっていた。  今日だけはヴァイオリンのことを忘れてしまおう。図書館にでも寄って読書をしよう。そして束の間の魔法がかけられた指で、本のページを捲るのだ。  想像するだけでわくわくする。俺は胸を弾ませながら教室を出た。
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