序章 宵闇の口 ~陰陽師鷹一郎 00

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◇  その前日の朝。  長屋の戸口がトントンと叩かれ、返事も待たずにガラリと開けられた。目を上げると鷹一郎が戸口から覗き、その整った顔をにこにこと微笑ませながら、開口一番。 「哲佐君、お手伝い下さいな」 「……お前、なんで俺が金がない時がわかるんだよ」  ちょうどその時、俺は狭く薄暗い長屋の一室で提灯張りの内職をしていた。そして金の予感に腹がグゥと鳴った。俺はちょくちょく鷹一郎におかしな仕事を頼まれて金を稼いでいる。  糊の壺に刷毛を差し入れ、ペタペタと提灯の骨に塗り付ける様を鷹一郎は感心したような、見方によっては馬鹿にしているようにも見える表情で眺めた。 「それにしても相変わらず手先が細かいですねぇ」 「まあな。それで……いくらなんだ」  俺は昨日、博打で有金を全部()った。昨晩のやけ酒と空腹が俺の胃を締め上げているが、この提灯を納めなけりゃ今日の晩飯にもありつけない有様だ。  弓張り提灯は一張3銭。普段の身入りは日雇い仕事で15銭ほど。  日雇いのほうが割がいいが、冬場は仕事が少ないのだ。  一方で鷹一郎が俺に持ってくる仕事の話は碌でもないものばかりだ。碌でもないが金はいい。そしていつも、俺に金がないのを見計らったように俺の前に現れる。 「そうですねぇ。たった今夜一晩、10円で如何(いかが)」  鷹一郎はにやにやと俺の手元を眺める。俺が断るはずがないと思っていやがる。  大卒銀行員の初任給が10円の時代だ。一晩でそれと同じ、俺の日当の70倍弱を稼げるわけだ。 「危ねぇのか」 「立ってるだけで結構ですよ、破格でしょう?」  危険性については一応尋ねてみたものの、いつも通りまともに答えはしないのだ。けれども俺は既に手元はそぞろで頭はすっかり傾いていた。 「それで俺は何に食われる(・・・・)んだよ」 「多分、鵺。でも今回は祓うだけです。珍しく純粋な囮です。よかったですね」 「よくねぇよ。そりゃ純粋に(おとり)ってことじゃねぇか」  囮、囮ね。  鷹一郎が俺に頼む仕事。それは簡単に言うと化け物の生贄になることだ。鷹一郎が言うには俺は世にも珍しい生贄体質(・・・・)というやつらしく、ありとあらゆる、とくに人に悪事をなそうとする化け物は、一目俺を見ると我を忘れて襲ってくるそうな。  鷹一郎は陰陽師なんてヤクザな仕事を生業にしていて、金で怪異を祓うことを仕事として請け負っている。そして鷹一郎は俺を囮に化け物を罠にかけ、手練手管で(なだ)めすかして手下に収めるのが趣味(・・)なのだ。  けれども今回の鵺には交渉の余地などないのだろう。だから趣味は諦めて仕事(・・)として祓ってお終い。ぶっちゃけただの囮のほうが危険性は低い。呼び寄せるだけ呼び寄せて俺が危険に陥る前に鷹一郎が倒す。そのような算段ではあろう。  そもそもこの『鵺退治』は神白県から依頼されたものらしい。  先週頃から新庁舎に勤務する職員、それも夜間の宿直を中心に人が次々と倒れる事件が発生した。最初は4年前(明治12年)と昨年に大流行したコレラの再来かと思われた。けれども症状が異なる。体が震えて気を失い、かえって熱を出すという。  そのうち宵闇に紛れて県庁舎に鳥の声が響き始め、ダダンと屋根上に足を踏み鳴らすような振動が巻き起こり、ぴかぴかの銅板屋根の上に足跡に見える(すす)が付着しているのが発見された。夜回り(警備員)が真っ黒な何者かが月明かりに照らされた屋根上を闊歩(かっぽ)するのを見た。それはおよそ人智の及ぶものではなかったという。  この段になって土御門神社、つまり鷹一郎に祓いの依頼がきた。  そして鷹一郎は何度か下見に来て、それがやはり鵺であると当たりをつけたものの、相手が屋根上から降りてこないものだから手の出しようがなかったそうだ。だから俺が雇いに来た。  ふわりと長屋が暗くなる。日が陰ったのだろう。
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