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「はい、お疲れ様でした。今日くらい運転動作に余裕があると周りがよく見えますよね」
「はい。次回も曲がるときは早めにブレーキをかけるようにします」
「そうですね…。ようやくここまで来ましたね。あともう少しです。残りの教習頑張ってくださいね」
「ありがとうございました」
「お疲れ様でした」
俺は千田真人…。自動車教習所で所謂『教官』と呼ばれている仕事をしている。この仕事をしてもう二十五年…。これまで多くの人の『初じめての免許』に携わってきた。
そんな時間で俺が目にしてきたものは、人が免許を取る理由は実に様々であり、またその環境も実に様々であるということだ。
俺はこれまで、初じめての免許に挑む人々のそんな思いに寄り添いながら、安全なドライバーの育成に務めてきた…つもりである。
そう…つもりなのである。
この『つもり』は恐ろしいものだ。何故なら俺だけがそう思っているだけで、周囲がそうは捉えていないからだ。
実に…恐ろしい。
なら周囲は俺をどうみているのか…。
…緩い。
…適当。
…やる気ない。
…仕事嫌い。
お調子者…。
こんな言葉を人から向けられる。
この間も担当した生徒からは、俺が普段からかなり気だるそうに映っているようで、「先生…いつもめっちゃ眠そうっすね」と、言われて落ち込んだばかりであった。こんなにも情熱的な思いがあるのに一体、俺の何が周囲をそう思わせるのか…。確かにあくびは初中してはいるが、周りに気付かれないよう、まるで年頃の少女のように手で可愛く口元を押さえて控えめにしているし、生徒に学科の質問をされれば、俺が言うよりも、より確実な説明が出来る学科主任教官に聞くことを進めてあげている。
あくまでも…そいつの為にだ。
そして俺の体調が悪くなり、それによって教習中に事故なんかになってしまえば、生徒に多大なショックと迷惑をかけてしまう訳であるから、そうならないように努めるという意味で、早退希望を毎朝出すよう心掛けている。
…それがいけないということなのか。
…まだある。バイクの教習時にだって、日差しの眩しさを和らげて、より細かく生徒の技量をチェックしてあげようと、しっかりとした大きめのサングラスを使用して従事している。それなのにみんなで俺のことを『マッカーサー元帥』なんて言って笑っていやがる。
もう俺には、何故そのような印象となるのか、全く以てわからない。
そんな誤解をされがちな俺ではあるが、熱い思いが実を結び、今では教官連中を束ねる管理職に就いている。中には俺の出世を「年の順だ」なんて妬むものもいるが、おおらかな俺は気にも留めない。
今日も俺は熱い思いを胸に業務に慢心…ではなく邁進するのみである。
教習所にとって、二月や三月は繁忙期となる。今がまさにその最中であった。この月に入る生徒は、技能教習の予約がなかなか取れず、平均二ヶ月ほどで卒業出来るはずが、倍以上の日数を要することになってしまうのであった。
先日のことである。一人の女性が入校受付窓口へとやってきた。「すいません…。入校したいのですが…」女性はやや遠慮ぎみに言ってきた。それを受けて、女性事務員がいつものように手際よく手続き書類の準備を始めた。俺はこの時間、たまたま事務所での仕事をしていた。溜まっていた書類に目を通しつつも俺はその女性に気を取られた。それはその女性から醸し出されている『悲愴感』からであった。女性は見たところ年齢は四十代で、化粧気はなく、乱れ髪であった。俺は書類を捲る手を止め、視線を然り気無く女性に向けた。女性事務員は書類が一通り揃うと女性の前に差し出した。「では、こちらの書類の太枠の箇所をまずはご記入してください」事務員がそう説明した。すると女性は書類ではなく、事務員の顔を食い入るように見つめた。「あの…。私、すぐに免許取りたいんです。今月中に卒業は無理ですか?」女性は受付カウンターに両手を付き、身を乗り出して少々向きになってそう言った。「今はとても混雑している時期になりまして…今月中というのは無理になります」事務員は一瞬驚いた様子だったが、すぐさま笑顔を作り冷静にそう説明した。「それはわかっています。そこを何とかなりませんか?」女性は必死にそう訴えた。困った事務員は俺に視線を向けた。徒ならぬものを感じた俺は、腰をあげて女性へと歩みよった。「私、責任者をしております千田と申します。何とかして差し上げたいのはやまやまなのですが…。今月中というのは仮に、予約が空いている時期であっても、カリキュラム上から無理になってしまいます」俺は丁寧にそう伝えた。すると女性は途方に暮れた様子で茫然と立ち尽くした。「申し訳ありません…」そうとしか言えない俺は、頭を下げるほかなかった。
しばらく沈黙が続いた。
すると女性は踏ん切りをつけたかのように俯いていた顔を上げて笑顔を作った。「わかりました…。ご無理言いましてすみませんでした…」女性は力なくそう話すと、肩を落として出入口へと向かった。俺は頭を下げながらそんな女性を目で追った。
「あの…」俺は思わず女性に声をかけた。女性は足を止めて振り返った。「ご希望へはお応え出来ないのですが、もし良かったら免許を急がれている理由…お話していただけませんか?」お節介な俺は、そう言って女性に近付いた。そして女性を待合室のベンチへと導き、二人で腰を下ろした。
女性の名前は島田さんと言った。島田さんは四十歳代の半ばで小学二年生になる息子さんと二人で生活をしていた。
しかし息子さんは『小児がん』になってしまい、一年ほど前から入院生活を送っていた。島田さんと息子さんはこれまで必死に癌と戦ってきたが、先週ついに余命宣告をされてしまった。
息子さんは自動車が大好きで、よく病室の窓から見える自動車を見ては「元気になったら、ママとトライブに行きたい」と話していた。そこで免許を持っていなかった島田さんは何とか息子の『夢』を叶えようと免許を取る決意をした。
息子が天国に旅立つ前に、何とか間に合わせたい…。
それが島田さんの初めての免許であった。
「わかりました…。何とかします」号泣した俺は、何の策も持っていなかったが、そう言った。
「島田さん…。
絶対に息子さんをドライブに
連れていってあげましょう。
一ヶ月…大変ですよ。
でも一緒に頑張りましょうね」
俺はまず、事務員に島田さんが今月中に終えられる為の予定を作ってもらった。「千田さん…これだと何人か予約している生徒さんに協力をお願いしないと駄目です。それに千田さん…あなたと何人かの休みは、全て無くなりますよ」
「え?休み無くなるの?
ぜ、ぜんぜん大丈夫だよ。
あはは…」
次の日、俺は朝礼で職員の前に立った。
「…と、いう訳で何人か休みを来月に回してほしいんだ。無理言って申し訳ない。誰か来月に回してもいいって人は手をあげてくれ!」
「……………」
反応はなかった。
「そっか…。
ありがとうな守山。
ありがとうな橋上。
感謝する…」
「いやいや!
手、上げてねぇし!」
その日の午後、俺は喫煙所に屯する教習生に近付いた。
「おう!元帥!」教習生の木嶋は、煙草を持つ手をちょこんと上げて、俺に馴れ馴れしく挨拶をしてきた。
「木嶋さ…。悪いんだけどさ…。お前の今月持っている予約さ…俺にくれ!」俺は木嶋の肩を抱きながらそう頼んだ。
「はぁ?いやいや!ムリムリムリムリ」
木嶋は必死な形相でそう言って燥いだ。
「わかったよ木嶋…。
缶珈琲一ヶ月分と俺の高級サングラスで手を打て。
想像してみろよ木嶋…。その高級サングラスをかけて缶珈琲を飲んでる自分をよ…。
ふふふ…。
これでお前も『ボス缶』だな」
「ふざけんな!元帥!」
こうして俺は多くの協力者を得て、島田さんの初めての免許に向けて準備を整えた。
後日から島田さんは、毎日溌剌と教習所へ通ってきた。おそらくは息子さんの看病や早朝の仕事をしているとのことだったので、しっかりとした睡眠を取っていないのではないかと心配はしていたが、島田さんは疲れた表情を一つも見せずに笑顔で頑張っていた。ここまで島田さんが頑張れるのは勿論、息子さんと見る『つかの間の夢』があるからであった。きっと島田さんにとっての免許証とは、掛け替えのない時を過ごすためのパスポートなのだ。そしてきっと多くの人が、大切な者と過ごす夢の時間を免許証に映して見ているのだと思った。
俺はそんな頑張っている島田さんの姿をみて、窓から入ってくる爽やかな風を浴びながら助手席に座って満面の笑みを浮かべている息子さんを思い浮かべたのであった。
第一段階を終え修了検定、仮免許学科試験も見事に一回でクリアした島田さんは順調に第二段階路上教習へと進んだ。路上教習では、息子さんと海を見に行きたいと言っていたので、海に行くまでに通ることになる大きな国道の交差点の右左折や合流地点、三車線道路での車線変更などを数多く体験してもらった。いくら息子さんとの夢のためと言っても事故だけは絶対に避けなければならない。そんな使命感から運転操作はもちろんのこと、ルールの解釈や判断の仕方、確認ポイントなど、助手席に座る俺が細かく指導した。
途中、守山が急な下痢で休むというアクシデントに見舞われたが、島田さんの教習計画は予定通りに進み、第二段階も修了を迎えた。
そしてついに残るは卒業検定のみとなった。
「千田先生…。ここまで本当にありがとうございました」島田さんはそう言って深々と頭を下げた。俺は残り少ない息子さんの命を永遠の時間に変えようとした島田さんの行動に尊敬の念を抱いた。「島田さん…本当によく頑張りましたね。あなたのその頑張りは生徒さんにも職員にも、そして…息子さんにも届いているはずです」そう言って俺も深々と頭を下げて敬意を表した。
「先生…。昨日の夜、もうじき卒業だと息子に話したら凄く喜んでくれました。これでママとトライブ出来るんだねって…。目をキラキラと輝かせて…」そう話す島田さんの目からはキラキラとした涙が溢れていたのであった。
そして俺の目からも涙が溢れた…。
卒業検定は教習所で一番細かい採点をする『鬼の大原』が担当した。
ちなみに俺は『仏の千田』である。
島田さんは『鬼』から高得点の評価を受け、無事に合格を勝ち取った。
俺は、最高の笑顔で一緒に受検した仲間と悦びを分かち合う島田さんを遠目から見て安堵の涙を浮かべた。
「おめでとう島田さん。
そして…
おめでとう息子ちゃん。
楽しいドライブ…
いってらっしゃい」
三月も終わりに近付いてきた。先日、木嶋は卒業していき、これで缶珈琲をおごり続けるという呪縛からも、ようやく解放された。俺は喫煙所で、これまで木嶋におごっていた缶珈琲を飲みながら一服していた。するとそこへ事務員がやってきた。
「煙草くさっ!
千田さん、島田さんがいらっしゃってますよ。
もう…くっさ!」
事務員は手で煙を蹴散らしながらそう言った。俺は慌てて煙草を消して受付へと向かった。
「島田さん、こんにちは」
「先生…。ご挨拶遅れました」
そう話す島田さんは、初めて受付に訪れたときの悲愴感漂う様子とは打って変わって、清々しい表情であった。俺はそんな島田さんを見て安堵した。
俺はあの時と同じように島田さんを待合室のベンチへと導いた。そして二人で腰を下ろした。
何から聞いたら良いのか俺は迷った。ドライブのことを早々に聞きたかったが逸る気持ちを抑えた。「卒業して免許はすぐに取れたんですか?」まずはここからであろうと思い、そう尋ねた。
「はい。次の日に免許は無事取れました」島田さんは優しく微笑んでそう言った。俺はゆっくりゆっくり深く頷いて応えた。
「だけどね…先生。
間に合わなかったの。
息子ね…
免許取れた日に旅立ちました…」
声にならなかった…。
「きっとね先生。
息子が私に免許をくれたんだって思います。
よく考えてみたら私ね、息子が病気になる前はずっと息子に免許欲しいってぼやいていたんです。二人で生活するにあたって免許さえあれば収入の良い仕事につけるしね…。
でもこの歳だしなって…。
私、勇気出なかったんです。
だから…
息子がそんな私に免許くれたんだなって…」
そう話す島田さんの目には涙が溢れていた。そしてゆっくりと財布から真新しい免許証を取り出すと、両手で大切そうに持った。
「これ…見せることは出来ました。
もう意識が混濁してたんですけど息子の手にこの免許証を乗せたんです。
そしたら息子の顔が一瞬笑顔に見えたんですよ…」
島田さんはそう言って微笑んだ。
「それは気のせいなんかじゃなく、間違いなく笑顔になってます。
島田さん…頑張って良かったですね。
息子さんが旅立つ日に間に合って良かったですね。
ドライブは大丈夫です…。
いつでも一緒に行けますよ。
あなたが…
助手席に座っている息子さんの笑顔を思い浮かべれば…
いつでも一緒にドライブです……」
俺は千田真人…。自動車教習所で教官をしている。今日も初じめての免許に挑む人々の思いに寄り添いながら、安全なドライバーの育成に務めている…つもりである。
そう…つもりなのである。
完
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