須弥山

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須弥山

「妙高山て知ってるかい、松島」  守山はいつものニコニコとした笑顔を、レジ越しに寄越しながら切り出した。  ド深夜のコンビニで話すには、割とおあつらえ向きな話題だなと思った。おあつらえ向きだが、この男の口から聞くには珍しい。  文学部学生だと聞くが、どこかの飲み会で飲んだのだろうか。  守山が徳利を持ってる姿が想像できないが。持ってたら持ってたでウーロン茶を差し出したくなる。  これで枠みたいな酒豪だったらキャラが立ち過ぎているな。 「ワンカップなら振り返って右奥だけど、妙高山は無いぞ」 「へえ、お酒があるんだ」  俺が彼の後ろ斜め45度を指し示すと、守山は「初めて知りました」と言わんばかりの顔で振り返っていた。  どうやら酒の話ではないらしい。妙な納得で俺は尋ね返した。 「なんの話だよ」  登山か? 「仏教の話だよ。意訳された言葉らしい。  須弥山という言葉に聞き覚えは?」  ぶ。…… 仏教? 日本の山の名前じゃなかったのか。  俺は首を振った。  考えると実家の宗派は浄土真宗で仏教のはずなのに、触りも知らないものだ。仏教の中の一つであることは知っていても、誰が開きどんな教えがあるのかを知らなすぎるのではないだろうか。  かと言って、では、と調べるつもりもあまりない。  守山は俺の反応に満足そうに頷き(彼はいつも満足気だ)、いつもの講釈に進む気配を見せた。 「須弥山というのはね……」  と、丁寧に守山は説明してくれたのだが、今回ばかりは申し訳ないが俺の理解の範疇を大きく超えていた。  ひとまず、「いろんな属性のミルフィーユの上にあるでかい山」と解釈することにした。そうしてそれが世界の中心にあるのだと言うのだ。 「ファンタジーにありそうな世界設定だな」 「あるんじゃないか。宗教の世界は人の心を惹きつけるように作られているから」  俺の頭の足りない感想にも、守山は興味深そうに返事をしてくれる。  人の心を惹きつけるように…… なるほど、面白くなければ人の関心を寄せられないものな。もしかしたら知らないだけで実家の宗派も面白いのかもしれない。  覚えていたらググってみようと心中でメモをしながら、俺はレジを出てスイーツコーナーの方へ向かった。  不思議そうにこちらを見ている守山の前でミルフィーユを一個取る。  レジに持ち帰り、バックヤードから自分の財布を持ち出し清算してしまう。レジ横のフォークを一つ守山に差し出し、ケーキの蓋を開けると自分は割りばしで崩した。 「奢り、と言いたいが俺も食いたい」 「いいね、ありがとう」  ふふ、と守山が笑って二人でミルフィーユをつつく。  じゃあこれも、と守山がレジ横のホットコーヒーを二つ取り、二つ分の代金を置く。甘いものだけではしんどかったか、と思ったが寄越されたコーヒーはよく見るとカフェラテだ。糖分を追加していくスタイルか。 「ところで松島、三千世界は知ってるかい」  ミルフィーユをつつきながら、守山は再び切り出した。  こうして彼が一夜のうちに差し出す言葉は、初見ではちっとも分からないが実は一本で繋がっている。この言葉も先ほどの妙高山や須弥山と関係する言葉なのだろう。  そこそこ彼と話を続けていると傾向が分ってくる。 「三千世界の鴉を殺し…… みたいな歌があったっけ」  薄っすらと覚えているフレーズを口に出すと、守山はメガネの奥の丸い目をぱたぱたと瞬かせた。 「松島は、時々びっくりする方面から切り込んでくる。  すごいね、都都逸を知っているのか」 「いや知らん知らん」  俺は時々、ふとした一言がこうして守山の琴線に触れてしまうようで、予想以上に彼の期待を引き起こしてしまう。欠片を聞いたことがある程度なので、その先の知識がない俺は、「それで?」と目をキラキラさせる守山に結構申し訳ない気持ちになるのだ。  俺がひらひらと手を振ると、守山は心得たというように、にっこりと笑った。 「幕末の志士、高杉晋作が歌ったと言われる都都逸だよ。  三千世界というスケールの巨大な世界を持ち出して、願うことが朝寝というささやかなギャップが滑稽な、美しい歌だよね」  都都逸がどんなものかも知らない上に、その歌を詠んだのがあの高杉晋助だと言うのも知らなかった。高杉晋助はさすがに知っているけども。  不意に出てくる見知った名前に妙な感慨を覚えながら、半分ほど欠けたミルフィーユを崩す。喋っている割には守山は器用に食べていたらしい。  箸休めにか、缶コーヒーを一口飲んだ守山は講義を続けた。 「さて、この三千世界だけど。  これが須弥山10億個分になる」  思わず口に入れたミルフィーユを吹き出すところだった。とんだスケールである。  俺はなんとかミルフィーユを飲み下し、念のためカフェラテをさらに流し込む。  そうして守山に向き直った。 「…… 単位なのか?」  俺の確認に、守山はニコニコと楽しそうにと頷いた。 「須弥山が一つの太陽と月を持つ一つの世界。これを小世界と呼ぶのだけれど、仏教の宇宙観では小世界がいくつもいくつもあるんだ。  この集合が一大千世界とか、三千世界とか呼ばれている。太陽と月と…… 10。  分かるかい、松島」  メガネの奥で笑う守山の言いたいことが分かった。  俺はいつかの『宇宙の地図』を思い出していたのだ。 「最近の話じゃないよな」 「うん?」 「いや、こう…… 最近解釈された仏教の宇宙観、とかなのか」  ならば、あの『宇宙の地図』に沿った解釈が出ても不思議ではない、かもしれないと思ったのだ。  俺のなんだかよく分からない期待(はるか昔に生まれたはずの思想が現代の宇宙の地図に繋がることにびっくりしてるんだ)に、守山は頭を傾げた。 「曼荼羅を見たことはあるかい、松島。  須弥山の世界観とは違うけれども、あれもまた世界を表しているのだって。  仏教の世界は過去から未来への一方向だけじゃないんだよ。水平に伸びる軸もあって、いくつもの世界が並行して生命も無生命も境界無く存在している。  その一切合切を偉い仏さんが教化しているんだ。  かなり乱暴だけどイメージはこんなんじゃないかな」  宗教の話をしているのか宇宙(物理)の話をしているのか分からなくなってきた。  頭を整理している間に、守山はミルフィーユの最後の欠片をフォークに突き刺した。 「哲学の話をしているのか」  始めは日本酒の話だとばかり思っていたのに。  ド深夜コンビニでするには深すぎる話題じゃないか。  守山はもぐもぐとミルフィーユを頬張りながら、そういえば、などと答えた。 「宗教を簡単に話そうとすると哲学になるってTwitterで見たなあ」  そうして俺たちが舞い戻って来たのは、手のひらの宇宙のようだった。
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