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和亮はそのまま帰るのかと思ったが、具合いが悪いのに一人で留守番している羽奏が気になると言って、帰ろうとしない。
羽奏はすっかり体調も良くなって、そんな風に心配して困った顔をする和亮を見ていると、またあらぬ妄想で都合のいいように解釈してしまう自分が情けなかった。
「和亮くん、私ならもう大丈夫だから帰っていいよ」
「ダメだよ。まだ顔色も良くないし、しっかり体休めないと。心配だよ」
「だから和亮くんが居たら休まらないんだって」
不意にそんな言葉が口から出て、羽奏はしまったと口元を押さえる。
和亮はなんとも言えない顔をして固まってしまった。
「……とりあえず薬飲まなきゃいけないし今から晩御飯作る。和亮くん食べていくの?それとも帰る?」
気不味い空気から逃げ出したくなって、ソファーから立ち上がる。
そのまま帰ると言って欲しいけれど、心のどこかで帰らないと言って欲しいとも思う。
それが顔に出てしまっていたのだろうか。
「俺もご飯作るの手伝うよ」
和亮は立ち上がると、なんともないような顔をして羽奏の手を握った。
これはどういう意味なのだろうか。
理由を聞くことも、振り払うことも出来なくて、恥ずかしさで俯いたまま、手を繋いでキッチンに向かう。
「和亮くん、手、繋いでたら料理作れない」
手を離してくれる様子がないので、羽奏は降参したように隣に立つ和亮を見上げる。
「じゃあ、なにかお願いごと聞いてくれたら離してあげてもいいよ」
悪戯を思いついたような意地悪な顔で笑うと、和亮はそうだなあと反対の手を顎に当てる。
「和亮くん……」
「あ、それだ」
「どれ?」
「俺のこと、もっと特別な感じて呼んでみてよ」
「特別な感じ?」
羽奏は言われている意味が分からなくて首を傾げる。
「そう。ワカちゃんだけが呼んでくれる特別な呼び方が良いな」
「特別な呼び方って……」
どうしてこの人はこんなにも人を惑わせることをするのだろう。羽奏はまた勘違いしてしまいそうになって、どうしても赤く染まる頬を隠そうと下を向く。
「……ねえ羽奏、お願い。俺を呼んで」
やっぱりズルい。
和亮は少し身を屈めて耳元で囁くように羽奏の名前を呼ぶ。
握った手の指を絡めて意味深にその指先を動かされて、手の先からジリジリと沸騰するように熱が込み上げてくる。
「じゃあ…………キ」
羞恥に耐えられなくなって、羽奏は絞り出した声で呟いた。
けれど案の定その声は和亮には聞き取れなかったようで、キョトンとした顔で羽奏を見つめている。
「羽奏、なんて言ったの?」
「…………アキ」
「アキ?」
揶揄い半分で楽しんでいたからか、和亮は少し驚いたように目を開くと、羽奏の言葉を反芻した。
「アキって呼ばれたことあるの?」
羽奏は顔を真っ赤にしたまま俯いて反応を待つ。いつものように揶揄われている気はしたが、誰も呼んだことのない呼び名で彼を呼ぶことが出来るなら、そうしたいと思った。
和亮はフッと表情を緩めると、握っていた手に少しだけ力を込めた。
「ないよ。羽奏だけ」
「……じゃあ、この先誰にも呼ばせないで」
「分かった。俺をアキって呼んでいいのは羽奏だけ。だからもっと呼んでくれる?」
甘えるように呟くと、繋いでいた手を不意に持ち上げ、口元に寄せて羽奏の手の甲にキスを落とす。
「……アキ」
「なあに?」
「アキ。手……離して」
「冷たいなあ」
揶揄うように笑うと分かったよ呟いて、和亮はようやく握りっぱなしの手を離した。
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