深海

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 リング内に立っていないのに戦っている気がした。裸の拳を叩き合っているようなそんな感覚を肌で感じる。す、っと背筋が震えて強張っているのに恍惚としてしまうようななにか得体の知れない欲望が渦巻いてたまらない。君で疲弊? もう既に混乱さ。頭の中に弾丸が詰まってしまったみたいだよ。君で頭の中がいっぱいだ。ザックに後頭部を開けてもらいたいね。なにか欠陥が見つかるはずだ。  私は煙草を燻らせる。いつもより早く吸い終わってしまったらしい煙草は根本まで火がついていて、ぽとり指から落とす。靴底で捻り潰すように煙草の火を消した。胸元から煙草を取り出し、咥える。するとマーサが近寄ってきた。暗がりに灯る煙草の赤い火。じ…と音が鳴るその煙草の先がまた重なった。端正な顔が私の近くにある。私は思わずマーサのほおを撫でてしまっていた。今日は血液が付着していない。マーサはタトゥーも無ければピアスの穴も無い。本当に生まれたままだ。装飾品をつけなくても目を惹く。血が彼にとってのアクセサリー。近くに寄るとなおさら、その瞳が好みで仕方がなかった。胸焦がれる。 「……君は?」 「んァ?」 「私は苦しんで君は愉しいのかい? 卑怯じゃないか?」  もがいているのは私だけだ。こんな騒がしい気持ちを引き摺り出され、溺れそうになっているのに、君はなぜそんなに余裕なんだ。私はマゾヒストだったか?  遠去かるように顔を背ければ、今度はマーサの指が私の顎を撫でた。私とマーサは少しだけ身長が違う。私の方がほんの僅か高い。そんな彼に引き寄せられる。私はマーサの顔に紫煙がかからないように上を向いて乳白色を吐き出した。酒と煙草を持ちながらマーサに顎を掴まれている。指先がゆるゆるとセクシーに私のアゴを撫でる。 「戦いはいつだって勝者と敗者がいる」  マーサの言葉通りだった。背後からリング内で戦うどちらかが倒れた音がする。歓声と罵声が湧き上がる。一夜の戯れの第一ラウンドが終わったらしい。  シガーキスの後は本当のキスがやってきた。互いの煙草の距離が無くなり唇が重なる。私はマーサにがん、と壁に押さえ付けられてしまった。コンクリートに打ち付けられ背中が痛い。後頭部を激しく手で押さえ付けられ逃げられないようにされてしまう。舌がバラバラと忙しなく口内に這い回る。  この果物屋は騒然としている。誰かが負けて誰かが勝った。それだけに一喜一憂して、罪と知りながら興奮している。そんな中で静寂を保ちながら私たちは戦っていた。角度を変えてキスが深くなる。物陰に潜みながらもつれあう。ぐちゅり、そんな卑猥な音は私にしか聞こえない。 「ん、ふぁ…ぅ」 「俺もしかしたら怒っているかもしれない。どちらが勝者か分かる? ね? ワイアット」  蛇のような舌が喉奥まで突っ込まれる。 「あぁ、いいこと思いついた。セックスしようか」  そうマーサは言い微笑んだ。するとマーサが持っていた瓶が壁に叩きつけられる。耳元で激しい音がして身体を大きく震わせてしまう。なにが起こったか一瞬パニックになっていれば、瓶の首元だけになったものをマーサが持っていた。コンクリートに散らばるアルコールと瓶の破片。 「手貸して」  私には拒否権が無いようで、マーサの手によって手のひらを広げてしまう。そこにマーサが瓶の破片を突き刺さした。 「い゛……」  血が吹き出し、手のひらに穴が空いた。私が昼間したように今度はマーサが傷口を裂き始めた。
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