深海

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 まず私がしなければならない事は努めて冷静になること。身体を動かすな。ナタリーを欺け。嘘を見破られるな。  私はデスクに酒を置き、しっかりとナタリーの顔を見る。ナタリーはプロだ。なりきれ。凶悪な犯罪者と同じように嘘を平気でつく人間になれ。 「マーサ・レイニー? 芸能人みたいな名前だな。写真は?」  義眼の件でマーサが人を殺したのかどうなのか頭を抱えていた。いや、寧ろ、考えないようにしていた。現実逃避だった。宙に飛ばして帰ってこないようにしていたのに。まさか、マフィアを殺すとは…。いや、まだマーサが殺したとは決まっていない。遺留物があっただけだ。  溜め息が溢れそうになり慌てて止める。ナタリーを欺くのに余計なことは考えていられない。思考を止めろ。普通に、いつものように。  写真が手渡される。そこにはやはり私が知るマーサが存在していた。銀色に輝く長い髪の毛、薄い唇、私を丸裸にする眼球。今日の朝まで一緒にいた私のマーサだ。マーサ・レイニー。 「あぁ……こいつか。一度会ったことがある。会ったというか助けてもらったんだ。道端で吐いたことがあってね。その時に。ビリーの話はその時のものだよ」 「それだけの関係か?」 「勿論だ。助けてもらった礼に飯を奢ろうとしたが断られたよ」  努めて冷静に。身体の中を静寂で満たせ。脈拍をコントロールしろ。静かに、静かに。脳を騙せ。秘密の関係に、私の楽園に手を出させるな。私のマーサに……。凶悪犯のように人を欺け。 「そうか。今回の件の第一容疑者だ。模倣犯である今回は早く終わってよかったよ」 「……あぁ、そうだな」 「なぜ、酒を飲む? なにかあったのか? 飲みたくなるようなことが」  ナタリーはめざとい。デスクに置いてある酒を一目見て、次に私を凝視した。あぁ、この目はなにか勘付いている。分かっているのに分かっていないふりをして言質(げんち)を取ろうとしているのだろう。私は小さく溜め息を吐く。脳に酸素を供給して、次の一手を考える。 「この事件が嫌いで仕方なくてね。この事件が解決したらFBIを辞めるよ」 「……」  私はふっと小さく笑い酒を舐める。ナタリーは私の本心であるそれに満足したのか、私の肩を少し叩き、写真を掻っ攫う。 「肩に力が入っている。あまり根を詰めるな」  そう言い彼女は解剖室を出て行く。後ろ姿を見送り、ふぅと小さく溜め息を吐き出した。緊張した身体が解れていく。  だが、ナタリーはやはりなにか異変に気付いたのだろう。無意識に肩に力が入っていたらしい。彼女なりの嫌味だ。あの言葉は、FBIを辞めるという私への気遣いにみせかけた威嚇。なぜ、今肩に力が入っている? なぜ緊張しているんだ? という遠回しな言葉だろう。やはりFBIを敵に回すのは得策じゃない。  私はスマートフォンを取り出し、マーサに電話をかける。遅い。何コールか分からないそれに苛つきながらマーサが電話口に出るのを待った。 〈……おはよ、ごめん。寝てた〉  気怠げな声が聞こえ、私の奥底が疼く。 「人を殺したのか? マフィアとの会食で、マフィアを殺したのか?」 〈あぁ、……ワイアットからの電話珍しいなぁ、と思っていたけど、用件はそれ? そんなこと?〉  欠伸が鼓膜に届く。  マーサ・レイニーとは誰か。ナタリーは私に訊いたが、私が訊きたい。マーサ・レイニーとは何者だ?
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