深海

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 そんなこと。彼にとってはそんなことなのか。    驚いて腰を抜かしたらしい。デスクの上に座っている自分がいた。寒い解剖室のおかげか脳が冷え切っている。それなのに身体は熱くて、冷や汗なのかなにか分からない汗が吹き出してくる。自分が解剖医で身体のことならなんでも知っているのに、この汗は理解出来なかった。  心底軽蔑している自分と、心底彼らしいと思う気持ちが相反している。混ざり合って融解して、粉々に砕け散って浮遊している。私の心はアスファルトに沈む油だまりのようだ。見方によれば美しく夜空に輝くオーロラのように見えるが、結局はただの油だまり。見たいものを見たいように見ているだけに過ぎない。汚い物を美しいと言っているだけに過ぎない。それでもマーサを美しいと思いたい。 「なぜ、そんなことを……」 〈殺したなんていつ言った?〉  マーサの言葉を一語一句取りこぼしたくなかった。酒を飲みたいのに手が動かない。小さく震えているようにも見える。一度目を瞑る。開けてみても世界は変わらない。世界が震えていればいいのにと思う。私の身体は私の意思に反しているのだから、世界が震えていて欲しかった。体が震えている理由が分からない。分かっているはずなのに理解したくなかった。  マーサの口調は相変わらずで、時折欠伸の音が聞こえてくる。呑気なものだと頭の片隅に思考が落ちる。 「遺留物でおまえの銃が出てきたんだ。それだけで十分証拠になる」 〈……俺ね頭良くないからさ、詳しいことは知らないけど、アリバイあるんだ〉 「アリバイ……?」 〈あんたとずっと一緒にいた。あの夜も会食が終わった後にはワイアットの家に行ったし、それから死体を作る時間が無いほどあんたと一緒にいた。証言したらいい〉  こいつはなにを考えているんだ。 〈でも証言したら、俺たちの関係は公になる。ファイトクラブで出逢ったなんて言えないだろ? だから証言しなくてもいい。あんたに俺の命を捧げるよ。どちらか選択して。知り合いで友達で夜を共にしていると言えるなら言っていい。……一応言うなら俺は殺していない〉 「……君はなにをしたいんだ」  気が付いた時には震える手の先に煙草が挟まっていた。赤い火が暗い地下室に灯されている。ヘビースモーカーの私だけれど今で一度だってここで吸ったことがなかった。死者への冒涜だと思っていたからだ。酒は私の体内にしか影響しない。けれど、副流煙は死者の体に入ってしまう。実際は身体が機能していないのだから入らないと分かっているが、私なりのルールだった。私は境界線を飛び越えてしまった。 〈俺、自分が知るより嫉妬深いようでね。どうもダンテ事件が嫌いみたいなんだ。あんたを翻弄してやまないその犯人に嫉妬しているんだ。だから、ちょっとだけちょっかいを出した〉 「……そんなことの為に」 〈そんなこと。ワイアットにとってはそんなことか。まぁ、そうだろうね。だけど、俺にとってはそうでもないんだ。あんたを翻弄していいのは俺だけ。俺を助けたいならワイアットが社会的に死んでくれ〉  社会的に死ぬ。違法者になれと暗に言われている。いや、もう私は逸脱してしまったのだろう。それを公にしろと。 〈それが愛だと言ったら、あんたはまた吐くのかな? ……おっと、早いなぁ、もうFBIのご到着だよ。家宅捜索とかあるのかな。金燃やしといてよかったよ。じゃぁ、頑張って。俺で疲弊して。俺だけを見て〉  切れた通話。煙草を咥える。紫煙を吐き出す。スマートフォンをデスクに仕舞う。心だけがここに無かった。……愛か。これが愛なのか。
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