深海

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 酒と煙草と愛が私の体内で混ざり合う。攪拌されたそれはなにかどろりとした感触のものを生み出す。なにかが羽化するかのような。  私は疲れた頭を懸命に動かす。もう既にパニックだ。煙草を吸い終わるとザックが帰ってきた。慌てて検死台の足元に付属しているシンクに煙草を投げ棄てる。意図せず排水溝の中に吸い込まれた煙草に眉間にシワが寄ってしまった。火さえ消せられたらそれでよかったのに。詰まらないだろうか? 詰まった方が面倒臭いぞ。 「先生? こんなとこで喫煙なんてダメじゃないですか。お酒も飲んでいるんですか?」  煙草は消しただけじゃ証拠隠滅出来ないのが難点だ。匂いでバレるとは分かっていたさ。ザックは私を叱りながら検死台に横たわる男性に近寄った。その男性を無下にして、私はマーサと話をしていたことを再度理解する。 「少し自棄になってしまってね。すまない」 「先生らしくない。お酒捨てますよ。あぁ……こんな場所に局長が見えたら一発でクビですよ。換気します」  はぁ、と私より重たい溜め息を吐き出したザック。さっきまでナタリーがいたよ、と言いそうになる。何故ですか? の言葉が怖かった。  アイザックは解剖室の換気扇を開けると、私が持っていた酒をシンクに開ける。水を出しグラスをテキパキと洗っていった。  自らとの関係を公にしろという命令。私を人質にしたあいつは今とても楽しいんだろう。 「なぁ、ザック。聞かせてくれ? 愛とはなんだ?」 「……恋人に振られたんですか?」  そんな可愛らしいものならどれほどよかったか。私の友人は蛇のように纏わりついてくる。振り解くのに時間がかかる。そのうち毒を持つ牙で皮膚を貫かれる。媚薬だ。ぐるり、体内を駆け回る毒。頭が回らなくなって今にいたる。  煙草が吸いたい。酒を飲んで眠りたい。もう考えるのは嫌だ。 「最近の先生はどこか幸せそうでしたからね。なんとなく恋人が出来たのかなぁと思ってました」 「……幸せそう?」 「えぇ。なんと言いますか、穏やかな顔つきをされていましたよ」  アイザックは自分のことのように嬉しそうに微笑んでいる。ザックはいつも眼鏡をかけている。琥珀色の眼鏡は彼の三白眼を穏やかなものにしている。昔、三白眼がコンプレックスだ、と言っていた。腕には短剣のタトゥーが彫られている。私の唯一の友達。なにも喋らない遺体を相手にする日常はアイザックと共にあった。私の寧日だ。穏やかな人の隣に私はずっといた。 「愛。そうですね、愛……なんでしょう? 私は恋人に幸せでいてもらいたいですね。私がおらずとも何年、何十年先まで幸せであって欲しいです。あわよくば、私がそうさせてあげたいという気持ちもありますけれど、どこか世界の反対側にいても、宇宙にいても、健やかな笑顔でいてくれたらそれだけで十分です」 「……なら、私のこの気持ちは愛ではない」  私の気持ちはもっとどす黒い。アイザックが言うような慈愛のようなものなどではない。もっと、もっと…… 「そいつといると穏やかなんだ。けれど反対に騒がしくもある。私以外に触らせたくない。私以外に……。幸せになって欲しいなんて思わない、なんなら、私と一緒に不幸になってもらいたいね。あいつのいない世界なんて、価値もなければ興味もない」 「先生、面白いことを言われますね。それって愛ですよ。少し不健全ではありますが、一般的に恋をしている人間が孕む気持ちです」  ふふっと笑うアイザックの瞳は穏やかだった。 「……なら、なんてエゴイズムなんだろうな。気持ち悪いとは思わないか」 「なにを先生はそんなに怯えておられるんですか? 愛とは気持ち悪い物ですよ。その気持ち悪い物を共有するんです。共有しなくてそんな独占欲を抱えているなんて相手に失礼ですよ」
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