深海

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 旧約聖書の創世記第2章9節  主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。  旧約聖書の創世記第2章16、17節  主なる神はその人に命じて言われた「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」  頭の中で鳴り響いたのは人間の始まりとされるアダムとイヴの話を描いた『創世記』だった。神に永遠の命と楽園を与えられていたのにも関わらず蛇の誘惑に負けてしまう2人。アダムとイヴのせいなのかは定かではないが、人間は禁止される物に手を出してしまう宿命なのかもしれない。  アダムとイヴは神に見放されたが、マーサは私を見放さない気がする。ここまでくると縋るような気持ちだ。私はどれだけマゾヒストに躾けられたのだろうか。マーサは戦い慣れている。人を殴り付ける覚悟と気迫がある。私はいつだってマーサに怪我を負わされてきた。見放されたらマーサを殺して死ぬつもりだ。そんなことさえ思ってしまう。今までが死んでいたかのようだ。今、生きていることを実感する。マーサの凶暴さが私を形作る。  あっははははははははは  尋問室に響き渡ったのはマーサ・レイニーの大胆不敵な笑い声だった。  私はマジックミラー越しにそれを見つめる。 「随分と早かったね」  凛とした声がスピーカー越しに聞こえてきて、私の身体と心が震えた。こいつの凶暴さに慣れてきている自分がいた。耳から脳を通して血液に回る。満たされていく、侵食していく感覚だ。  私とマーサの関係性をすべて暴き出すまでに掛かった時間は僅か2時間。ジェイコブはダンテ事件とは違う今回の件を余裕で片付けてしまった。私を見る目が変わったのは確かだったけれど、私の事情聴取にはいつもの通り接してくれた。それが痛々しかったのを覚えている。 「なにがだ?」 「ワイアットが腹を括った、ということだよ。あの子はもう少し悩むと思った。現実主義者だからね」 「……あなたのアリバイは立証されたことを私たちは認めます。ですが、なぜ、あなたの銃が現場にあったのですか?」  ジェイコブは皮肉的に淡々と話を進めていく。足を組んでジェイコブを見つめるマーサ。その瞳は穏やかで、寄せては返すさざなみのようだ。黒のダブルジャケットは彼の銀髪によく似合う。 「貸したんだよ。元々、マフィアとの会食が嫌でね。無くなればいいと思っていたんだ。そしたら殺したいって言っている奴に遭遇してさ。ワイアットとデートが出来ると思って、唆しただけだよ」  こんな簡単な事件、私が白状する前にジェイコブは突き止められただろう。 「凶悪な犯罪を担当している君たちFBIには理解不能だと思うが、私が銃を貸して犯罪に加担したのは(ひとえ)に、ワイアット・ルートが欲しかったからさ。自分の欲望を優先して出した結論であり行動」  こいつといると私は殴り続けられるだろう。だが、こいつは私になにをしてもいい。私が許す。私の中の欲望が許してしまうんだ。どろりと蕩け出す欲望が。  これが終わったらダブルジャケットを存分に褒めよう。 「分かりますよ。そういう人多いんでね。そこに座った人間はそうやって綺麗に着飾った言い方をする。決められたルールも守れない人間に愛だなんだ言われても陳腐にしか聞こえない」  もう禁断の果実を食らってしまったんだ。後戻りは出来ない。後戻りはしない。境界線はとっくの昔に越えていた。ただ、マーサをその他大勢のデータに入れるな。マーサはマーサだ。
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