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 もういい、そう思った。    そう頭が理解した瞬間には腕が伸びていた。ぐ、っとマーサの唇を私の手が覆う。嫉妬しているのは確かだ。その瞳が義眼かどうか知りたい。君が私の手に穴を開けたほど、怒り狂った元恋人のことを知りたい。けれど、もういい。君は私を選んだ。私も君を選んだ。それだけで十分だ。そうじゃないか? 「君が喋りたいことを喋ってくれたらそれが一番だ。喋りたくないことは喋るな」 「なにそれ? ちょーイケメンじゃん、惚れる」 「揶揄うな」  マーサが喋りたいなら聞こうと思う。けど無理に聞くのはもうどうでもいい。今のマーサにだけ集中したい。今のマーサに翻弄されたい。誰に形作られたのか知りたくない。騒がしくなるんだ。今の君の隣が居心地が良い。 「……その本読んだよ。君のいないうちに。私にはさっぱりだった。意味不明だったよ。あれを文学というのか…いや、文学だからこその気持ち悪さがあるか…。とにかくどうでもいい」  私はマーサの唇にカサついた自身のものを重ねる。啄むだけのキス。ちゅぅ、っという音が静かな貸金庫に響いた。マーサの唇は私のとは違って柔らかく温かかった。  歳下の子供になにを強請っているのだろうか。私はこの子より長く生きている。こんな欲張りで愛想をつかされないだろうか。私をこんなに臆病にする愛は知らないほうがよかったのかもしれない。嘘だった。もういいなんて嘘だ。 「あーあ、ワイアットってホント面白いよね。そんな顔してさ、無理があるって。それにきちんと話をしようかなぁって思っていたんだよ拘留されているときに。だからここに連れてきたんじゃん」 「……だから、別に喋んなくていいって」 「それ誰に言ってんの?」  ほら、またマーサは俺を殴る。 「ワイアットが自分に言いたいだけでしょ? ワイアットは誰かに喋りたくない過去があるんでしょ? 別にそれはそれでいいじゃん」  心に深い傷を負わせる。涙がぽろり、溢れた。マーサはふっと小さく笑い、私の煙草を咥えられなかった唇にキスを降らす。優しいキスだった。確かなキスだった。 「俺はこれから過去を話すよ。ワイアットが知りたくて堪らない話をしてあげる。でもワイアットは喋らなくていい。あんたの過去はあんたのものだから」  FBIを解雇になったのはマーサが留置されてすぐだった。今はアイザックがダンテ事件を担当しているだろう。  私をレイプした女はどこかでのうのうと生きているんだろう。エマ。探し出したい。私は今、幸せだよと言ってやりたい。 「恋人だからって全てを大っぴらにする必要はない。ワイアットが喋りたいことを喋りなよ」  この子は私より逞しい。私より美しく、私より気高い。そんなこととうの昔に知っていたはずなのに再確認してしまう。 「分かった、なら言うよ。私の隣に根付いてくれ」
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