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 ぽこぽこ、と呼吸音がする。水の中に漂う私の呼吸音。マーサは手が届きそうで届かない、水を司る精霊ウンディーネのようだった。嘘は彼の生き方でなににも歪められていないから神聖な気がする。それと共にどこかへ行ってしまいそうな儚さを感じる。根付くことは、彼を縛り付けてしまうような気さえする。こんなにも独占欲を抱えていていいのか。マーサを監獄に入れるようなものでは?  月と水面の違いが分からなくなる。今の私は海に漂う漂流者だ。マーサとの関係に悩む。彼を道しるべだと思っていいのか。いや、私の判断基準は彼なんだ。もう後戻りは出来ない。 「母が死んでも俺は嘘をついていたから、周りは母親が死んだからイカレたんだって言うようになってね。人はなにか説明できるものに縋りたくなるものなんだと理解したよ」  マーサの嘘つきは生まれたときかららしい。本当にマーサは生まれたまま美しい。そのまま歪まずに生きてこられたのが奇跡だ。矯正させられたら私はこのマーサに会えなかっただろう。   「あぁ、話がごちゃごちゃになったな。あのフルーツ屋の親父に会う前に、俺死ぬほど殴られて。そいつらの話聞いてたらフルーツ屋で違法なファイトしてるって言うじゃん。だからぜってぇにそいつら探してやり返してやろうって思ってあそこで働いていたわけよ」 「で、めきめき戦いにのめり込んだって?」 「まー、そんなとこよねー。結構楽しくてさァ。誰も俺の経歴なんて気にしないし、家族の話、出身校の話なんてしないじゃん。生きるの楽で」  私たちが普通としているものが辛く感じる人もいるのは理解していた。けれどもまさか真実を嫌う人間がいるとは思わなかった。聞けば聞くほど彼がなにを求めているのかを理解していく。彼はとことん自由が好きだ。自由が欲しいから嘘をつく。嘘をついてしまうから自由になれる。どちらが先なのかは分からないが、やはり彼が嘘つきだからと異常だと言えないなにかがあった。  だって私だって干渉されるのが嫌いだ。今までの人生をやり直したいと思ったことがある。 「ファイトクラブで働く前、酷く好きだった歳上の男性がいてね。片想いだったよ。実るはずもなかった。ゲイじゃなかったからね。そいつに貰ったのさ、『片腕』をね。だからオヤジに嘘ついたんだろうな。その男性と眼玉を交換したという願望も込めて義眼だと。あいつ、まんまと騙されやがって。つーか、ワイアットに話すなよ。……あんたから義眼なのかって訊かれたとき、心底嘘をついた自分を恥じたよ。怒りが込み上げてきた」    私の心はさっきから寄せては返すさざなみのように不安定だ。だが、ひとつ言えることは、マーサの嘘を矯正してしまったのは私だと言うことだった。 「マーサ! こんなとこにいたのかよ! 今夜のファイトはやめだ! 今警察が来ている、誰かが通報したみたいだ。逃げろ!」  歩道を確かな足取りで歩くマーサ。前から走ってきた若い男性がそう叫んで私たちの間をすり抜けていく。  もうすぐ果物屋。黒のダブルジャケットが艶やかに揺れる。 「知ってる」
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