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 夜の静寂を打ち砕くように川面が激しく割れ、英雄が姿を現した。 「大丈夫か?」  岸に上がった英雄は、まだ水の中にいる魔者の子の腕を掴んで引っ張り上げた。 「……追っ手は来ていないようだ」  英雄は辺りを注意深く見ながら言い、月光に輝く金色の髪をかき上げた。水滴が飛び、英雄の引き締まった頬や逞しい首筋を濡らす。滴り落ちる水を払いながら、英雄は瑠璃色の瞳を魔者の子に向けた。 「随分濡れてしまったな」  全身がずぶ濡れでも厭う様子を見せない魔者の子に、ささやかな違和感を持ちながらも英雄はようやく表情をゆるめた。  魔者の子は表情を浮かべずに英雄を見た。闇のように深く美しい漆黒の瞳は英雄の心をさざめかせた。  英雄は魔者の子の前に跪き、手を伸ばした。白い頬に貼りついた髪を丁寧に払い、流れる水滴を指先で拭った。  魔者の子はわずかに目を伏せたまま微動だにしなかった。  指先に灯った温もりがまた英雄を揺るがす。  英雄は一瞬惑ったように手を止めて魔者の子を見た。が、すぐに手を引いた。 「もう少し辛抱してくれ。もうすぐ仲間が来るはずだから」  英雄は優しくほほ笑んだ。  英雄の声に誘われるように淡い光がふわりと現れ、まわりを漂いはじめた。 「来た」  英雄は光の一つに触れ、導くように掌に乗せた。 「団長」  光から声が響いた。 「ウィスカ。私だ」  英雄が返事をする。 「あぁ、ご無事でしたか。いま参ります」  言葉に違わず、まもなく人影が現れた。 「団長」  低い声とやや高い声が同時に響いた。 「ニアール、ウィスカ」  英雄は人影の名前を呼んだ。茂みの奥から背の低いニアールと細身のウィスカが用心しながら出てきた。 「よくぞご無事で」 「よかった」  ニアールとウィスカは英雄に駆け寄り、安堵の言葉を漏らした。 「何とかうまくいったよ」  英雄はふたりに笑いかけ、後ろにいた魔者の子を示した。 「……この方が?」  ウィスカが魔者の子を見やる。 「そうだ」  英雄は頷いた。 「やはり人間だったのか」  ニアールも魔者の子に目を向ける。 「……詳しいことは後だ。とにかく野営地に戻ろう」  英雄が視線を遮るように立ち上がった。 「えぇ、皆が待っています」 「行きましょう」  野営地は森の奥にひっそりと造られていた。  先導するウィスカはある木の前で立ち止まり、掌に乗せた光にもう片方の手を置いて大きく息を吸った。 「……!」  息を吐くと同時に両手を離して光を解放する。周囲に淡い光が一瞬散り、隠されていた野営地が姿を現した。  小さな広場の焚き火の前に、剣を手にした人影が立っていた。 「無事のようだな、団長殿」 「ガート」  名前を呼ばれたガートルードは剣を納め、英雄に歩み寄った。  歩くたびに後ろに流してひとつに束ねた赤毛が印象的に揺れる。  長身の英雄より少し低いが充分に高いといえる体格で、冷静な物腰と張り詰めた身のこなしは歴戦の猛者を思わせた。 「何とか無事だ」 「それは良かった」  英雄の答えに、ガートルードは切れ長の目を細めた 「お帰りなさい」 「マド」  ゆるくウェーブのかかった灰色の髪を三つ編みにしたマドラ・ルアが焚き火の前から立ち上がった。柔らかな癖毛は左頬をほぼ覆っているため、均整の取れた貌と相まって神秘的な雰囲気を醸し出している。  英雄とほとんど変わらない背丈だが、体型は細く、筋肉質の英雄と並ぶとその華奢さが際立った。 「帰って来たよ」 「よくお戻りで」  マドラ・ルアは穏やかな笑みを浮かべて英雄の帰還を祝った。 「お怪我はございませんか?」 「ミュリ」  蜂蜜色の髪を三つ編みし、王冠のように頭に巻きつけたミュリエルは英雄に駆け寄る。  かすかにあどけなさが残る顔立ちに不安の色が滲んでいる。小柄な体は緊張で強張り、小さな唇は固く結ばれ、対照的に大きな目はじっと英雄を見つめた。 「ありがとう。大事はないよ」  ミュリエルの顔を見ながら英雄がほほ笑む。 「よかった」  ミュリエルは大きく息を吐いて笑顔をこぼした。 「隊長。これを」  ウィスカが毛布を英雄の肩に掛けた。 「さ、あなたも」  と、魔者の子にも毛布を掛けた。 「早くこちらへ」  ミュリエルが焚き火の前にふたりを座らせ、マドラ・ルアが温かい飲み物を差し出した。 「ありがとう」  英雄は二つのコップを受け取り、片方を魔者の子に勧めた。 「熱いから気をつけて  魔者の子は両手でコップを受け取ったがすぐに口はつけなかった。  英雄は湯気を払うように軽く息を吹いてから一口飲んだ。熱さが内側を駆け抜け、強張った体をほぐすように広がっていった。自然とため息が漏れる。 「本当によく帰ってきた」  焚き火を挟んで向かいに座ったガートルードが言った。 「団長を信じてはいたが、今回ばかりは戻ってくるまで安心できなかった」  ガートルードの隣にニアールが腰を下ろした。クセのある焦茶色の髪の下から覗く同じ色の目がゆるやかに英雄を映す。 「すまない、無茶を言ったのは自分でもわかっていた」  英雄は苦しげな笑みを浮かべた。 「私は何事もなく帰ってくると信じていましたよ」  マドラ・ルアは美しい笑みで応えた。 「ぼ、僕も信じていました」  薄茶色の短髪を乱すように身を乗り出したウィスカもマドラ・ルアに同意するように叫んだ。 「ありがとう。……皆、本当にありがとう」  英雄の瑠璃色の目は淡く揺れ、焚き火の炎を映して黄金のように輝いた。  ——この柔らかな面差しは人を魅了する。  ガートルードは英雄に見惚れるような視線を向ける仲間たちを見て、わずかな不安を感じた。  英雄がいつかその魅力を悪しき業として振り撒いたのなら——。  朗らかな笑い声がガートルードの想像を掻き消した。  そんな筈はない。  あいつは英雄なのだから——。
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