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11話
「ごちそうさまでした」
冬也さんと暮らし始めて2週間。予想外に穏やかな日々で、正直かなりビックリしている。最初の数日こそ緊張してたけど、2人きりで過ごす時間にも慣れてきた気がする。
「俺が洗い物しとくから、その間に風呂入ってこい」
「でも、冬也さん残業だったし疲れてるんじゃ……」
「疲れてるのは陽菜も同じだろ。いいから入ってこい」
「じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとうございます」
こんな感じで家事もちゃんと手伝ってくれるし、私の体調も気遣ってくれる。
「本当に優しいんだよなあ……なのに、何であんなに苦手だったんだろう」
お湯に浸かりながらの独り言が、バスルームに少しだけ反響する。
もちろん、苦手だと思っていたのにはちゃんとした理由があって、誰かを注意する時のあの逃げ場が無くなる様な言い方が苦手だった。追い詰められてる感じがして窮屈で……でも、上司だからって偉ぶるわけでもなく、理不尽に怒鳴るわけでもないし、よくよく考えれば、優しさが垣間見えてる部分もあったのかもしれない。私が苦手だって思っちゃってるから気付けなかっただけで。
それに、これは結婚を発表してから知った事だけど、冬也さんって実は男性社員には好かれていたみたいで、同じ部署の人だけじゃなくて、異動した人まで態々お祝いを言いに来てくれた。まあ、相変わらず女子社員には不評なんだけどね……
「それにしても、節穴過ぎるよねえ……私。これだけ一緒に働いてて、気付かないんだから」
苦手って思っちゃってるから、全てがそうにしか見えなかったんだろうけど、思い込みって駄目だなあ。
「陽菜、大丈夫か?」
「へ……冬也さん、どうしたんですか?」
「どうしたんですかって、お前が中々出てこないから」
「え、私そんなに長く入ってました?」
「もう30分以上経ってる。あんまり長湯はしない方がいいんじゃなかったか?」
そういえば、妊婦さんはのぼせやすいからって言われてたんだった。
「ごめんなさい、ちょっと考え事してて。すぐに上がります」
「慌てて転ばないように気をつけろよ」
「はい」
冬也さんが脱衣所から出て行ったのを確認して、ゆっくりとお湯から上がる。まさかそんなに時間が経ってたなんて思わなかった。
体を拭きながら、少し下腹部が出てきたなあ……なんて思いつつ、パジャマに着替えて脱衣所を出ると、ドアのすぐ近くに冬也さんが立っていて。まさかそんな所にいると思わなかった私は、驚いて悲鳴を上げてしまった。
「そんなに驚くか?」
「だって、いると思わなくて……」
「心配だったから、出てくるの待ってただけだろ。それで、体は何ともないか?」
「ちょっとボーッとしてる気はしますけど、大丈夫です」
「それは大丈夫じゃないだろ……水持っていくから、ソファーに座ってろ」
言われた通りにソファーで座っていると、冬也さんがお水の入ったコップを持って来てくれて、受け取ったそれを私は一気に飲み干した。自分では気付いてなかったけど、結構喉が渇いていたみたいだ。やっぱり少しのぼせていたのかもしれない。
「もう一杯いるか?」
「もう大丈夫です。ありがとうございます」
「そうか。1人の体じゃないんだから、気を付けてくれ」
「すみません……」
――最近、冬也さんからこういう事を言われると、自分の中でモヤモヤとした感情が湧いてくる。
妊娠してるんだから……妊婦なんだから……
そう言われる度に、自分の気持ちが暗くなる。冬也さんが心配してるのは、子供だけなんじゃないかって思えてきて……
そう思ってしまう理由は自分で気付いてる。ただ、素直にその気持ちを認められないだけ。この数ヶ月で冬也さんに対する気持ちが変わり過ぎてて、頭も心も追いついてない。
「どうした?」
「いえ……何でもないです」
「やっぱり気分が優れないんじゃ……ベッドに行けと言いたいところだが、髪の毛がまだ濡れてるな。風邪ひいたら大変だし、俺が乾かしてやる」
「自分で出来ますよ」
「いいから、そこで座ってろ」
洗面所からドライヤーをすぐに持ってきた冬也さんは、私の髪を乾かし始めた。熱くないかを気にしながら、私と比べて随分大きな手が髪を乾かしてくれる。誰かにしてもらうのって気持ちいいな。
「そういえば、渡したい物があるんだがもう少し大丈夫か?」
「渡したい物?」
髪を乾かし終わった後、1度自分の部屋に戻った冬也さんは、1枚の紙と小さな箱を持って戻ってきた。
「これ、何ですか?」
「こっちは婚姻届だ。そろそろ出さないとだろ。それからこっちは……開けたら分かる」
「開けていいんですか?」
「ああ」
箱を受け取って開けると、中に入っていたのは指輪だった。
「これ……もしかして婚約指輪……?」
「本当は結婚を決めてすぐに渡すべきだったんだろうが……どういうのがいいか分からなくてな。結婚を発表したのに、お前が指輪をしてないって言ってくる奴が居て内心焦ってたんだが、やっと納得いく物を見つけられた」
「ずっと、探してたんですか……?」
「ああ。一生に一度の事だし、こういうの女性は色々好みがあるだろう。だから決めかねていて……」
「っ……冬也さん〜……」
「おい、何で泣く……!?」
「だって……」
こんなの、泣くに決まってる。だってサプライズ過ぎる。こういう形の結婚で、婚約指輪を貰えるなんて思ってもなかったから。
「そろそろ泣きやめ。お腹の子が驚くぞ」
「いいんですっ。だってこれは、嬉し泣きだから……」
「そうか……喜んでくれたようで何よりだ。それ、付けるか?」
「付けてくれるんですか?」
「ああ」
隣に座った冬也さんが箱の中から指輪を取り出して、私の左手薬指に指輪を付けてくれた。
「――絶対大事にするからな」
冬也さんの言葉とキラキラ光る石の綺麗さで、更に泣けてくる。
「陽菜がそんなに泣き虫なんて知らなかった」
隣から伸びてきた手が優しく頭を撫でてくれるから、なんとなくその手に甘えたくなって擦り寄ると、一瞬の間を置いて肩を抱き寄せられる。さっきよりも密着した状態で頭を撫でられて、しばらくすると冬也さんに体を預けて眠りに落ちていた。
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