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旅は道連れ
「こってり……絞られたな……」
「……うん」
俺達がライフセーバーの人達から解放されたのは、夕方頃だった。警察沙汰にもなったが、大事には至らなかったということで、厳重注意に留まり。名目上は『足を滑らせた』ということで、どうにか収まった。
なんなら助けに飛び込んだ俺の方が、カナより怒られていたと思う。警官に「死にたいのか」と言われたのは、路肩で車中泊した以来だった。
あの時――あそこでカナが目を覚まさなければ、二人とも溺れていただろう。
おそらくカナは、初めから気を失っていたわけじゃない。俺の見立てだと、生きるも死ぬもどっちでも良かったんだ。
「宿、探すか」
「……ん」
びしょ濡れの靴が重たい。生乾きの服のまま、俺達は車に戻った。
財布は難を逃れたが、ポケットに入れた俺のスマホは完全にブラックアウト。宿探しは、その身一つだったカナに頼らざるを得ない。
しかし夏真っ盛りのシーズン中。観光地の港町ということもあって、泊まれるところは限られていた。
駐車場に車を停め、各々荷物を持って建物の入口へ。
「なあ……本当に、いいのか?」
「伊藤、しつこい」
命の恩人に対して、刺々しく言い放つカナ。
まあ確かに……そこは、宿泊施設ではあるんだろうが、休憩という言葉の方が合っているような場所だった。フリータイム、ノータイム、サービスタイムの違いって何だよ。無駄にルールや料金プランの知識が増えていく。
この際、割高な宿泊代には目をつむろう。とにかく今はシャワーを浴びて着替えたい。いや変な意味じゃなくて。
先払いでルームキーを借りて、俺達はエレベーターに乗った。運悪く他の利用客と乗り合わせてしまう。スーツ姿の中年と、色気ムンムンの格好をした女性。俺は無関心を装って、四階のボタンを押した。
なるべく目を合わせないように逸らした所為で、カナの方を向いてしまう。こっちを見るなと言わんばかりに睨まれた。気まずい。かつてないほど。
部屋は窓に面した端。キーを差してドアのロックを外す。室内から吹く冷気が廊下より涼しい。
中はビジネスホテルよりも広く、きらびやかだった。キングサイズのベッドにソファーまである。謎のシャンデリア照明、無駄に凝ったヒラヒラのカーテン、大型テレビに格調高そうな壁紙。こういう場所だと知らなければ、まるで一流ホテルを思わせる。
どうやら、そこまで法外な価格設定じゃなかったらしい。
「先にシャワー借りても、いいか」
「ん、どうぞ」
着替えと、備え付けのバスタオルを持って浴室へ。やはりと言うべきか、二人で入っても十分なほど広々としていた。床が光ってるのは何故なんだろうか。
浴槽には浸からずに、シャワーを浴びる。海水でゴワゴワになった髪を滑らかに。温かい水が、冷え切った身体の芯まで染みた。
どっと気が抜けてしまいそうだが……まだ今夜は、やるべきことがある。
一通り済ませてから、俺は浴室を出た。カナはベッドの上に腰掛けて、じっと部屋の壁を見ている。何も考えていないようで、何もかも考えているような表情だった。
「風呂、空いたぞ。待たせたな」
「……ん」
無気力に立ち上がって、着替えの入ったリュックを背に担ぐカナ。
「覗かないでよ」
「バカ言ってないで早く行け。風邪引くぞ」
呆れながら手を振り、俺はソファに座った。正面の大型テレビは、ぼんやりと湯上がりの俺を反射している。下のテレビボードには、DVDプレイヤーとマイクスタンドが収納されていた。
シャワーの水音が嫌でも聞こえてくる。良からぬ妄想をしてしまう前に、俺はカナに何を言うべきか考えた。
人生において、死にたいと思ったことは、一度も無い。
それは早くに母を亡くして、その分まで生きたいと墓前に誓ったからだ。俺一人が死んだところで父さんが悲しむだけだし、大きく世界が変わるわけじゃない。ちっぽけな命だからこそ守ってやらないと。他にも代わりが居るのなら、あえて席は譲りたくない。そうやって生きてきた。
けれど、カナが岬から落ちた瞬間――俺は、なりふり構わずに後を追った。自分が死ぬかもしれないのに、自ら死のうとしている奴を助けたかった。
まるで、物語の主役みたいに。
三十三歳にもなって柄じゃない。あんな状況が訪れたとしても、冷静な自分でいられると思っていたのに、幻滅だ。
それでもカナを救えたことは、嬉しかった。
つまらない俺でも、少しは誰かの役に立てたんじゃないかって、そう思ったんだ。
水音が止んで、しばらく経ち。カナは昨日と同じように、無地のマフラータオルを首から下げて現れた。
真っ白なバスローブ姿で。
「……服……コインランドリーで洗濯したの、あるだろ」
なんとか口に出して、釘付けにされかけた視線を外す。今頃になって酸欠だろうか、頭が痛い。
「朝に着ようと思って。寝たら汗かくし」
相変わらず恥も外聞もないらしい。カナはベッドに腰掛けてから、後ろへ大の字に倒れた。下着くらいは履いてるよな?
俺は溜息を吐いて、軽く頭を振る。
「……で、どうして、あんなことをしたんだ?」
一蓮托生で死にかけた手前、問いただす権利はあるだろう。解決は出来ないかもしれないが、話くらいなら聞いてやれる。
カナは仰向けになったまま、虚ろに天井を見つめていた。俺はカナが口を開くまで黙って待った。
「伊藤はさ……就職活動、上手くいってた?」
やはり仕事絡みの悩みか。それならまだ、人生の先輩として助言くらいはしてやれる。
「三社目で今の会社に入ったな」
「……ふぅん……あたしはね、誰にも拾ってもらえなかった」
その答えが、いくつもの点を、一本の線にした。ここに至るまでのカナの言動、その全てに意味を持たせた気がする。
カナは何かを掴もうと、片腕を伸ばした。
「就活に失敗して、それでも大学は卒業しなくちゃいけなくて。うるさい親に、忙しそうな友達。なんだか、あたし一人だけが取り残されて、世の中から必要とされてないのかなって」
だから消えようとしたのか。
カナは典型的な、自己アピールが苦手なタイプだ。さらに輪をかけて、我を通そうとする。就職はバイトとは違う。会社という組織である以上、一定の協調性が求められる。そこを書類や面接で見抜かれたんだろう。
就活に失敗し続けていれば、確かに病む。まるで自分の存在を否定されているかのように。
「今でも、そう思うのか?」
俺の問いに、カナは「わかんない」と短く返した。伸ばしていた腕を下ろして、目元を隠す。
「伊藤が拾ってくれなかったら、断言できたのにな」
単なる偶然、その場の勢い。それでも俺がヒッチハイカーを拾い、二人で旅をした事実は変わらない。最後まで見捨てなかったのも。
「あたしなんて、迷惑なだけだと、思ってたのに」
カナの声が震え、上擦った。長い沈黙の中で、カナが静かに泣いている。
「すまなかった」
ようやく俺は、海辺で言えなかったことを口にした。事情を知らなかったとはいえ、追い詰められていたカナを、俺は邪険にしようとした。謝って済む話じゃない。たった一つの希望さえ打ち砕かれて、カナは岬から飛び降りたんだ。その責任は、俺にもある。
そして俺は、大人として、責任の取り方も分かっている。
「明日から、また二人で旅を続けないか? 今度は楽しむ為に」
俺もカナも、旅の目的が後ろ暗いままだったから、きっと楽しめていなかった。でも互いに気持ちを打ち明けた今なら、少しは前向きになれるんじゃないかって思うんだ。
「伊藤は、あたしで、いいの……?」
鼻が詰まったカナの声に、俺は――
「ああ。カナが、いいんだ」と返してやった。
むくりと上半身を起こし、腫れぼったい切れ長の目を向けるカナ。泣いて清々したのか、ほのかに顔が赤い。
「また名前で呼んだ」
「え? 前から呼んでるだろ」
「岬で呼ばれたのが初めて。今が二回目」
「そ、そうだったか……?」
「そうだよ」
まあ別に、どうせ偽名なんだから良いだろう。そっちだって呼び捨てなんだしな。
=―=―=
で、翌日。
俺は風邪を引きました、と。
「……流石に、何か被っとくんだったな」
「ソファーで寝たのもあるけど、あれが原因じゃないの?」
「……そうかもしれん」
ゴホゴホと咳き込む。
昨晩、疲れ果てて寝ようとした矢先……隣の部屋からセクシーボイスが漏れ聞こえ、俺達は落ち着かなくなった。
その結果、据え置きのカラオケに手を出した。お隣の騒音に負けじと、『ワン・ショット・チキン』のメドレーリレー。俺は喉を枯らすまで歌ったし、カナは予想通りの綺麗な声質だった。せっかくのリッチな部屋が、カラオケボックスになったわけだ。
チェックアウトの後、車に戻り、トランクから引っ張り出した体温計を脇の下へ。
「熱……ありそう?」
「37.5℃だ。微妙だな」
解熱剤を飲んでおく。頭が重い。いつまでも気だるさが抜けずにいる。一人旅であれば薬の副作用を気にして、どこかで素泊まりして休むんだが、この状態で誰かを乗せて運転するのは怖いな。
俺が思い悩んでいるのを察してか、カナは「ん」と手を差し出した。
「あたしが運転する。伊藤は助手席で寝てて」
「……できる、のか?」
「免許、持ってるから。家の車も、たまに乗ってる」
どうやらペーパードライバーでは無いらしい。ここで地団駄を踏んでるわけにもいかないし、心機一転の旅に水を差すのは、もっと嫌だ。命を預ける、という意味でも今更か。
「じゃあ頼む。行き先は――」
「北の方。行き当りばったりで」
分かってるじゃないか。俺はカナに鍵を渡して、助手席に乗り込んだ。運転席に座ったカナは、座席を前にズラして、バックミラーも調整した。
「シートベルトはしてね」
「あのな……俺だって運転免許は持ってるんだよ」
「……そう。安心した」
意趣返しのつもりか。微笑んだカナの表情を見て、俺は熱っぽさが増した。
ほとんど今日は寝ていたように思う。途中でコンビニに寄って、おでこにカナが買ってきた冷却ジェルシートを貼られて。海岸沿いを道なりに。カモメの鳴き声を聞いていたら、また意識が落ちた。
再び起こされたのは、日も暮れだした頃。車は長い渋滞に捕まったのか、列をなしてアイドリングしている。
「具合が悪いところ、すみません。検問にご協力ください」
野太い男の声。にこやかな警官が車内を覗き込むように見ていた。
検問か。珍しいな。
「ごめん。車検とかの場所が分からなくて」
「ああ、それなら」
カナに車検と身分証の置き場を教えて、まどろみの中へ戻った。
助けて、助けられて。ギブアンドテイクの繰り返し。退屈しない景色を、誰かと共有できる喜び。
ずっと続けばいいと思っていても、やがて旅には終わりがくる。
夏季休暇という、容赦ない制限時間が迫っていた。
=―=―=
カナと旅をして、自分の何が変わったのだろう。
別れた後の空白期間、ぽっかりと空いた穴を見つめるように、そのことを考えていた。
感涙も抱擁も無く、別れ際に握手だけをして。それでも最後に見たカナが笑顔だったのは、未来を感じさせる救いなのかもしれない。ちょっとは生きる意味を見出してくれただろうか。俺には信じることしか出来ないけれど。
連絡先を交換していればなと、家に着いてから後悔した。
夏が終わって、秋も過ぎて、冬を越そうとしている。
平常通りの仕事、代わり映えしない毎日。年度末に向けて、総務と人事は慌ただしくなっていく。
「伊藤センパイ、暇っすか」
デスクに置かれる紙の束。また他部署の後輩が、舐め腐った態度で俺を見下していた。
「お願いがあるんすけど」
複製品のように作られた笑み。俺が断らないと知っての、雑用の押し付け。非生産的な部署に対する、風当たりの強さ。
「ああ――」
やっておくよ、と言い掛けて、俺は言葉を詰まらせた。
こんな後輩なんかより、カナの方が我がままで、よっぽど他人のことを想っていた。
「悪いが手伝えない」
「は……?」
予想外だったのか、あっけらかんと口を開けている後輩。
「人事の仕事が溜まっててな。これから選考書類に目を通さないといけないんだ。自分でやってくれ」
「……マジっすか」
今にも舌打ちしそうな顔で、後輩が眉根を寄せる。不思議と俺の心は少しも傷まなかった。これが期待なんかじゃなく、ただの強要だと気付いたから。
「それとも上を通して直々に依頼するか? それでも俺は構わないが」
「……くっ」
乱雑に紙の束を持ち帰る後輩。こんなにも簡単なことが、どうして今まで出来なかったのだろう。
他人より自分を優先させただけ。歯車の一つに過ぎない俺でも、期間限定で主役を張れたという自信が、そうさせたんだと思う。
「さてと」
冷めた紅茶を口に含んで、俺は選考書類をめくる。
そこには山田佳奈という名前と、愛想の良さそうな顔写真が貼り付けられていた。
思わず吹き出しそうになったのを堪えて、俺は記憶を掘り起こす。
いつ、どうやって。
ああ、そうか。車検と一緒に挟んだ身分証に、会社の名刺。あの検問の時か。
ずらりと書かれた資格と志望動機に、何故だか涙が出そうになった。
季節は巡り、また夏がくる。
思うに、人生は名も無き道と同じだ。その気になれば、好きな時に、好きな場所へ行ける。大事なのは道中を楽しむこと。それを意識して、自分から動く。脇道も寄り道も、たまにはしてみるものだな。
今度は二人分の旅支度を済ませて、俺は彼女を迎えに行く。
あの公園前で、親指を立たせて待っているだろう、カナのことを。
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