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徒然たる道草
人生において、自分のことを主役だと思わなくなったのは、いつの頃だろう。
「そんじゃ父さん、行ってくるわ」
「気をつけてな。楽しんでおいで」
「ああ。なんかあったら連絡して」
三十三歳、会社勤めの実家暮らし。家族は定年を過ぎた父一人。これといった趣味は無く――強いて言えば、年二回の長期休暇にドライブ。
家を後にして銀色のミニバンへと乗り込む。キーを回すと、ガソリンのメーターが満タンを指した。準備万端だ、出鼻をくじかれることはない。
道幅の狭い住宅街を抜け、あてもなく車を走らせる。
前回、正月休みの時は九州まで行ったから、次は東北か。
カーナビは沈黙したまま。なんとなくの成り行き。寒かったら南で、暑ければ北へ向かう。それ以外の目的は考えない。気楽な一人旅だ。
有料道路や高速は使わずに、下道で。なるべく町中を見られるように、追い越し出来るところは法定速度ギリギリで。
運転席側の窓を少し開けて、早朝の涼風を招き入れる。良い感じに旅日和の晴天だ。白い雲も散っている。
しばらく県道を道なりに、気が向いたら横道に。道に迷いそうだったら、カーナビの地図を見て北へ。
そんな風に数時間ほど走った頃だった。
「ん……?」
なんてことのない公園の入り口で、親指を立たせている人の姿。
バックミラーを見ても、俺の後ろに車は無い。誰かと待ち合わせているんだろうか。それで俺の車と勘違いしたとか?
距離が縮まっていくほどに、はっきりと輪郭が見えてくる。どうやら若い女性のようだ。
ぱっと見で分からなかったのは、その格好がボーイッシュだったからで。
青いジーンズにカジュアルなTシャツ。まるで登山にでも向かうかのようなリュックを背負っている。少し茶が混じったショートヘア。女性特有のラインと顔立ちが無ければ、男と見間違えそうだ。
ピンと斜め上に伸ばしている細い腕。あまり期待していないのか、無愛想なポーカーフェイス。
誰が見たって、それはヒッチハイクのポーズだった。
マジか。
色んな意味で危なっかしい奴だ。俺は足裏をブレーキペダルに添えながら、そいつを避けるように横切った。
バックミラーで確かめると、彼女は残念そうに俺の車を見ている。
もしかして何時間も、ああやってヒッチハイクを続けていたんだろうか。現代社会の日本で。この炎天下に。電車代も出せないくらい金欠なのか?
いかん、気になり始めている。所詮は他人事だろうが。
心の中で、親切心と好奇心が囁いていた。あれが中年の野郎であれば、声くらいは掛けていたのかもしれない。
「……っ、運が悪いな」
ここに来て初の行き止まり。二世帯住宅に囲まれてしまった。やむなく、その場でUターン。
来た道を戻って、曲がり角を左折すると、またしても例のヒッチハイカーが指を立てていた。どうやら諦めるつもりはないらしい。同じ相手に頼るって、相当だぞ。
これも何かの縁か。根負けしたよ、困ってるなら話くらいは聞いてやろうじゃないか。人道的に。
ハザードを出して公園前に止まる。薄く流していた音楽も消して、と。
コンコンと窓ガラスをノックする、ボーイッシュな彼女。切れ長の目で車内を覗き込んでいる。俺は助手席側のパワーウィンドウを下げてやった。
「止まってくれて、ありがと。乗せて」
ずいぶんとストレートな物言いだ。近くで見た感じ、十代ではなさそうだけれど……二十代前半くらいか? いずれにしても俺の方が年上だというのに。そういう態度であれば、敬語は要らないだろう。
「どこに行きたいんだ?」
「おじさんの行きたいところ」
おじさん言うな。これでも三十そこらだ。
「その格好、どっかに行くつもりなんだろ。遠くじゃなければ送ってやる」
「だから、おじさんの行きたいところだって。ここ以外だったら、どこでもいい」
「あのな……」
大方、家出の類か。そんな面倒事なら御免だ。巻き込まれたくない。
「そういうことなら、悪いが他所を当たってくれ――って、おい! 勝手にドアを開けるな!」
「夜逃げとか、そういうのじゃないから。ちょっと遠くの方まで旅をしたいだけ。おじさんの目的地に着いたら降りるよ」
「……俺は男だぞ」
「それで?」
「無防備すぎるって話だ」
「あたしだって人は選んでるつもりだよ。おじさんに下心があるなら、そんな風に忠告なんてしないでしょ」
「待て、座るな! おい!」
ばたむ、とドアが閉められる。怒鳴っても凄んでも、テコでも車から降りる気はないようだ。無理矢理にでも追い出すべきか。
「本当に嫌だったら、このまま警察署まで連れて行けば」
その一言が何故か、さっきまでの声色と違って聞こえた。抑揚が無いのに、どこか寂しげで。ともすれば自暴自棄のような。
わざとらしく、俺は溜息を吐いてみせる。
とんだ拾い者だ。できることなら捨ててやりたい。
でも、まあ。
こいつが飽きるまで乗せてやるのも、面白いかもしれない。一応、成人はしているようだし。荷物の量からして、どうせ一泊二日くらいのつもりだろう。途中で焦って降りるに違いない。長くても、せいぜい夜までの付き合いだ。
「ったく、シートベルトはしろよ」
「もちろん。あたし運転免許は持ってるから」
「……そうかい。そりゃ安心した」
旅は道連れ世は情け。
俺はハザードランプを消して、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
=―=―=
市街地を抜けること三十分。県道から国道に入って、段々と木々が多くなってきた。それに伴い信号や電柱の数が減っていく。
視界の奥には、なだらかな山が連なっている。くっきりとした青空と、鮮やかな緑のコントラスト。その一方で、俺は息が詰まりそうだった。
女性を助手席に乗せるなんて経験、今までの人生でしたこともなく――あ、いや、教習所の婆ちゃんなら乗せていたけど――ともあれ何を喋ればいいものか。いっそ音楽でも流したいところだが、いまいちタイミングが掴めずにいる。別に遠慮することでもないんだけどな。
きょろきょろと車内を見回し、リュックを大事そうに抱えていた彼女は、ようやく口を開いた。
「もしかして旅行中?」
「まあ、な」
「どこ行く予定なの」
「北の方」
「新潟、秋田、それとも北海道?」
「決めてない。行き当たりばったりだ」
「……変なの」
「いきなりヒッチハイクをしてくる奴よりかは、まともだよ」
「それは……そうかも」
どうやら自覚はあるらしい。尚更タチが悪い。
せっかく開いた口が閉じる前に、俺は車内の雰囲気を変えようと試みた。
「予定通りに動くのって苦手なんだよ、俺。脇道が好きでさ。ついつい入りたくなっちまう。だから旅をする時は、目的とかは決めないんだ」
「ふぅん」
興味なさげな相づちは勘弁してくれ。メンタルにくる。
「言っとくが気まぐれで走るし、気まぐれで止まるからな。いつ帰るかも気まぐれだ。降りるなら今の内だぞ」
「いいよ。あたしは遠くまで行きたいだけだから。むしろ、おじさんが旅行中で好都合」
何か不穏なことをサラッと言われた気がする。だが、それよりも。
「おじさんってなぁ、俺は三十代前半だ。せめて『おにいさん』とかにしてくれ」
「三十代は『おじさん』でしょ」
俺は路肩に停車して、胸ポケットからスマホを取り出した。不意のことで目を白黒させている彼女に、検索結果の画面を突きつける。
「ほれ見ろ。統計学的にも、おじさんは四十代からだ!」
「わ、分かったから。必死すぎだって」
わかれば良いのだ。俺は鼻を鳴らして、再び車を走らせた。
彼女は小さく「降ろされるかと思った」と呟いている。そこまで心の狭い人間じゃないぞ、俺は。説得力が無いかもだけど。
「そういえば名前、まだ聞いてなかったな」
良くも悪くも車内の雰囲気は変わったと思うので、ここらで探りを入れてみる。
俺にしたって、いまつでも『おい』とか『お前』で呼ぶわけにはいかないからな。
「……カナ?」
「いや名字じゃなくてだな。てか何で疑問形なんだ」
「じゃあヤマダで」
「偽名かよ」
山田かな? って、あからさまな。
そこまでの信用はされてないらしい。ある意味、不用心じゃないのは感心するが、便宜上は困る。まあ初めから偽名と分かっているなら、名字で呼ぼうが構わないか。ボーイッシュな見た目通りの、クールな偽名だ。
「オニーサンは?」
「そんな棒読みになるくらいなら、『伊藤さん』とでも呼んでくれ」
「伊藤ね」
「さっそく呼び捨てかい」
変に気を遣われるよりかはマシだが、年上としての威厳は弱いみたいだ。そういえば、会社の後輩にもナメられっぱなしだった気がする。
優しくて、頼み事を断らない、便利なセンパイ。
くそ、旅行中だってのに思い出しちまった。
二車線の道路で、後ろから大型のバイクが追い抜いていく。曲がりくねった道は、これから登るであろう峠を否応にも意識させた。
休憩せずに走り続けてきた所為だろうか、心なしか身体が重い。俺はカーナビの時計に目をやった。
「そろそろ昼だな。飯でも食うか?」
「ん、任せる」
「好き嫌いとかは?」
「ん、合わせる」
「どういう意味だよ……」
とりあえず嫌いな食べ物は無いということで。
数分ほど行ったところで、ファミレスを見つけた。マスコットキャラの赤い鳥は、チェーン店のシンボルだ。昼時なのに駐車場は半分くらいしか埋まっていなかった。正直、待たされなくていいのは助かる。
エンジンを止めて、俺達は車のドアを開けた。むあっとした熱気が頬を撫でる。これには流石のポーカーフェイスも歪むようだ。
「……あっづい」
「早いとこ店の中に入ろう」
自動ドアの先は別世界のように冷房が効いていた。店内はカウンターよりテーブル席の方が多い。いかにも和食の料理店という感じで、内装も落ち着いている。
若い女性の店員に「何名様ですか?」と訊かれ、俺が右往左往している間に、カナは「二人で」とピースサインを作っていた。その淡泊さ、見習いたいよ。
通されたのはテーブル席で、カナが窓際に座って、俺は通路側に腰かけた。何も言わずにメニューを持っていかれる。分かってはいたが、結構マイペースな奴だ。
ペラペラとメニューを捲ったカナは、一巡だけして「ん」と差し出してきた。即断即決。羨ましい限り。
さて、さっさと俺も決めなければ。最初の昼飯だ、景気づけに豪勢な食事にしたい。
お手頃な日替わりランチでも800円か。少し割高な感じもするが、まあ気にしない。旅行中は財布の紐を緩めることにしているからな。
「注文してもいいか?」とカナの同意を得て、俺は呼び出しのボタンを押した。すぐに来てくれたのは、さっき案内してくれた店員だ。
「ご注文はお決まりでしょうか」
俺は店員が分かりやすいようにメニューを指で差す。
「この松天重ってので。あとは……」
カナにメニューを渡そうとしたところで、素気なく店員の方を向かれた。
「ナスの浅漬け」
……それだけか?
という疑問は店員にもあったようで「ご注文は以上でよろしいですか」と返されるも、カナは「以上で」とスッパリ答えた。
食が細い女性も居るだろうし、ひょっとしたらダイエット中という線も無きにしもあらず。
俺は切り替えて、店員に水を貰えるか尋ねてみたものの、どうやらセルフらしかった。
「あたし、取ってくるから」
「え、ああ。頼む」
なんなら俺が行こうと思っていたんだが。あいつ、今になって気まずくなったんだろうか。そりゃ運転中よりかは会話に困るけれど。
「はい、どうぞ」給水機から帰ってきたカナが俺の前にコップを置いたので「ありがとう」と返しておく。
カナは少し間を空けて「どういたしまして」とコップに口をつけた。ちびちび水を飲む姿は、どこか小動物のようだ。
よく分からん。つい場の勢いに流されてしまったけれど……俺は目の前の彼女が、どういう人間なのか知りたくなった。
「こういうこと、何度もしてるのか」
「こういうことって?」
「ヒッチハイクだよ」
「それなら初めて。意外と上手くいくもんだね」
いけしゃあしゃあと。お節介な奴に拾われて良かったな。
「伊藤は慣れてそうだよね」
「ん?」
「旅。車の中、そこそこ改造してたし」
「まあ……年に二回、夏季休暇と正月休みの暇つぶしに、な」
「楽しい?」
「それなりに。普段だと見られない景色は、退屈しないもんだ」
同じことを繰り返す仕事。代り映えしない職場。適当に築いた人間関係。
そこに刺激は無い。
真っ直ぐ伸びた道を歩くように、ぼんやりと過ごしているだけだ。
たまには脇道だって通りたくもなるさ。
「そんなことより昼飯、足りるのかよ」
「……何が?」
「浅漬けだけだろ。旅は体力が無きゃ続けられないぞ」
「朝ご飯、いっぱい食べてきたから」
と、その瞬間――カナの方から、ハムスターの鳴き声みたいな音がした。俺の聞き間違いじゃなければ、それは腹の方からで。
おい、無表情のまま赤面しないでくれ。リアクションしづらいっての。
「だと思ったよ」
「節約しないと。まだ始まったばっかりなんだし」
「その考えが浅いんだ。しょっちゅう旅に出れないんだから、残念な思い出なんざ作るなよ」
俺は勝手に店員を呼んで、追加で松天重を頼んだ。鋭さが増す、カナの視線。
「ちょっと……お金、払わないから」
「ああ、素直に奢られとけ。真正面に腹空かせた奴が居たんじゃ、飯が不味くなっちまう」
独身貴族の貯蓄を舐めるなよ。派手に散財しなきゃ痛くも痒くもないわ。
二つの天丼に挟まれる、ナスの浅漬け。味は悪くなかったのだけれど、カナの訝しげな表情が、喉に引っ掛かった。
前途は多難そうだ。
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