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暗がりの入道雲
「……着替え、持ってきてるよな?」
「何その質問。やらしいんだけど」
「違うっての! ただの確認だ」
沈みゆく真っ赤な太陽が、空の色を変えている。俺とカナは『ゆーパーク』という温泉施設に来ていた。利用時間は夜の八時まで。まだまだ余裕がある。調べた感じ、ついでに晩飯も食べられそうだ。
「そのリュックに何着か入ってるんだろ」
「……一応、あるにはある」
「洗濯物を入れるビニール袋は」
「無いけど。それ訊いて、どうするの」
「コインランドリーが置いてなかったら、洗濯は明日までお預けだ。臭い対策だよ、ほれ」
女性に臭いとか言うのもデリカシーが無かったか。カナは眉間に小さなシワを作りながら、ジッパー付きのビニール袋を受け取った。
「言われるまでもないと思うが、脱いだ下着は服で包んどけよ」
「わかってる!」
怒るなよ。アドバイスしてやったのに。
俺達は施設内で別れて、風呂上がりに休憩所の大広間で落ち合う取り決めをした。
利用客は多くもなく少なくもなく、近所から来ているんだろうか、高齢の爺さんが目につく。大浴場にドライサウナ、寝湯と一通りの設備は整っているようだ。シャンプーの類が備え付けられているのも嬉しいところ。
大きなガラス窓の向こうは竹柵で囲われている。赤から濃紺へ移りゆく景色を眺めて、俺は浴槽から出て行った。
「……遅い」
割と長風呂のつもりだったのだけれど、それでもカナは現れない。すっかり日は落ちた。宴会場のような広間には俺を含めて三人しか残っておらず、その二人も帰り支度を始めている。
結局カナが休憩所に来たのは、閉館ギリギリの時間だった。
「おまたせ」
悪びれもせず、いつもの無表情で無地のマフラータオルを首から下げている。服も着替えたようで、白と黒のボーダーブラウスと、カーキ色のハーフパンツ。靴下だけは、やけに幼い柄物だった。洗濯物はリュックにでも入れたんだろう。
女性の入浴は長い。髪を乾かす時間もあるし、保湿なんかのケアもある。頭では分かっていたんだが、ここまでとは。
「……行くぞ」
俺は座布団から立ち上がって、出口へと歩き出した。
二人で旅をする以上、何でも思い通りに動けるわけじゃない。ましてや友人でもない他人なら尚更だ。何時に集合と言っていなかった俺にも落ち度がある。
だけれど――
そもそも、こうやってカナを基準に段取りを組むこと自体が、俺の旅を狂わせている。
こんなのは、ヒッチハイクで拾った時から分かっていたことだ。
自業自得。それを飲み込んだ上での、タイムリミット。
車に乗り込んで、ヘッドライトを点ける。俺はカナがシートベルトするのを確認してから、道の駅へ赴いた。
夜の静かな車内を、ワンチキのポップなメロディが上書きする。
「……伊藤、なんか怒ってる?」
「いや」
「嘘でしょ。顔に出てるよ」
「なら放って置いてくれ」
「……わかった」
客観的に見た自分が、勘違い野郎だと気付いただけ。
二人旅の方が面白いなんてのは――幻想だ。
無言の空気は、一人で旅をしてる時よりも、ずしんと重たく感じた。
国道沿いの、道の駅。のぼり旗には交通安全の文字と、『せんだ』と施設名が書かれていた。
広い駐車場に、まるで洋館のような佇まい。店は既に閉まっているようで、明かりはなかった。駐車場には大型トラック一台と、乗用車が数台。目的は仮眠か車中泊だろう。なるべく端の方に俺は停車した。
周りは田園と森が囲っていて、ここに到着するまではコンビニすら見当たらない。いわゆる僻地だ。
エンジンを止めると、微かにカエルの鳴き声が聞こえた。
「着いたな」
俺は肩の荷が降りたように、言葉を吐き出した。カナはカチッとシートベルトを外して、リュックを抱えている。
言え。さっさと口にしてしまえ。
「悪いんだが、お前を乗せてやれるのも、ここまでだ」
「……そっか」
どこか諦めていたかのように、カナはフロントガラス越しに空を仰いだ。
「ありがと。乗せてくれて」
「大したことじゃない。それより、どうするんだ? ここから」
「とりあえず他の駐車してる人とか、見てみる」
「駄目だったら?」
「歩くかな、適当に。朝になったら、またヒッチハイクして」
俺以上に無謀なプランだ。計画性も何もあったもんじゃない。そういえばカナの目的は『遠くへ行く』だったか。もっと違う手段で旅をすれば良かったんじゃないか? わざわざヒッチハイクだなんて。
カナがドアに手を掛ける。
これまで世話してきた手前、謎の罪悪感で押し潰されそうになった。こんな気持ちのまま、俺だって旅は続けられない。
「……あー……最後に飯でも、食ってくか? つってもカップラーメンだけどさ」
「いいの?」
大事な非常食とはいえ、また買えばいい。何を買い足すにも運転手ありきの奴なんかに比べれば、楽なもんだ。
「ちょっと待ってくれ。準備するから」
俺は車を降りて、後部トランクから携帯バッテリーと湯沸かしポットを取り出した。水は2リットルのペットボトルを三本ほど積んでいる。ラーメン二個くらいじゃ減った内に入らない。
「そういや、何味がいいんだ?」俺はポットに水を注ぎながら「醤油と塩、味噌があるけど」と訊く。
カナは「ん、任せる」そう言った後「ラーメン、何でも好きだから」と付け加えた。
今まで、冷めたトーンで喋っていたカナの声が、初めて弾んだ気がした。
「……そうかい。そりゃ良かった」
=―=―=
あれだけ暑かった昼間が冗談だったかのように、夜の駐車場は涼しげで。ポットの淡いオレンジ色の光と、立ち上る湯気を俺とカナは見ていた。
二人とも車を降りて、その車体に寄り掛かっている。せっかくの夜空は、入道雲で月が隠れて見えない。暗がりに雲の形だけが、はっきりと分かった。
「汁も飲めよ。捨てるの面倒だからな」
「……ん」
道の駅が車中泊に厳しくなったのは、利用者のマナーが悪いからだ。ゴミ捨て、喧嘩、所構わず排便と……そんな悪事をやられたら、管理する側だって禁止にしたくもなる。こういうのは一人ひとりの心掛けが大切で、せめて車中泊が禁止されていない道の駅では、しっかりとマナーを守っていきたい。
「使い終わったカップ、貰ってもいい?」
「……コップ代わりにするのか?」
「ん、歯を磨きたいから」
それくらいは、まあ。俺も磨きたかったし。
食後の余韻に浸る間もなく、俺達は並んで歯を磨く。俺は自前のプラスチック製マグカップで、カナは醤油ラーメンの容器で。シャコシャコと心地良い音が無駄に響いた。
そうこうしていると、大型トラックが動き出す。どうやら仮眠だったらしい。ぐるりと駐車場を旋回して、器用に出口を抜けていく。
うがいは道路の排水溝に吐き出して。俺は口元を拭い、カナを見た。白い容器を手にしたまま、斜に構えている。
「色々と、ありがとね」
「行くのか?」
「ん。他の車も、あんなだし」
「……確かに。あれじゃ声なんて掛けられないよな」
遠目からでも分かる。小刻みに揺れている車。言うに及ばないってヤツだ。こんな所まで来て、お盛んなことで。近寄らなくて正解だったな。
「そんじゃ、元気で」
「……じゃあね」
手を振ることも、笑顔を浮かべることもなく、カナは踵を返した。
……変な奴だったな。
いつしか胸の奥にあった罪悪感は軽くなっていて、俺は苦笑しながら車へ戻った。
助手席を倒して、寝台を整える。二つ折りにしていたエアーマットを敷いて、低反発の枕をセット。忘れちゃいけないのは外から見えなくする為の目隠しだ。俺はマグネット付きのカーテンを使っている。付け外しが楽だし、車種を選ばない。一つだけ網戸仕様の物にしてあるので、換気も申し分ないだろう。
「……こんなところか」
慣れたもので、十分くらいで準備はできた。車中泊での旅は、否が応にも早寝早起きだ。俺は車内のライトを消して、倒した助手席側に寝そべった。足を伸ばすと、一日の疲れが抜けていくような気がする。
今頃あいつは、あてもなく歩き続けているんだろうか。
ふと、ミニバンの天井にコツンと音がした。一つ、二つ、三つ――それは次第に数を増していく。
雨、だった。
やがて騒々しいまでに降ってきて、それは小雨と呼べないほどで。湿った空気が網戸から侵入し、独特な匂いを運ぶ。
夜の雨は、冷たく痛い。
あいつ、傘くらいは持ってるよな。
あの登山用みたいなリュックに、どれだけの旅支度が備わっているのか。
そんな疑問が頭の中を巡る。
所詮は他人事だ。でも、知らない仲じゃない。
「……あー! くそっ!」
俺はポケットに入った鍵を、乱暴にキーシリンダーへ突き刺して、ぐるりと回した。
これも何かの気まぐれだ。旅のルールに反しちゃいない。俺は、自分自身で考えて行動している。
道の駅を出て、国道沿いに車を走らせる。まだ別れてから、そんなに時間は経ってないはずだ。
見晴らしのいい田園地帯で、すぐに人の姿を見つけた。
ズボンと同じカーキ色の折り畳み傘。後ろからライトで照らしているのに、振り返ろうともしない。ヒッチハイクするんじゃなかったのかよ。
俺はカナを追い抜いて、路肩に車を止めた。車内のライトを点け、運転席のドアを開ける。
雨の音が騒がしい。これに負けない為には、こっちも大声を張り上げるしかなかった。
「乗せてやるから、早く来い!」
滴が落ちるサイドミラー。そこに映る人影が、少し足を止めた後、走ってきた。濡れた路面がパシャンと水音を立てる。
助手席のドアが開かれ、それでもカナは立ち尽くしていた。昼飯を奢ってやった時と同じ表情を貼り付けて。
「何してんだ。濡れるだろ。入れって」
「……伊藤、どうして?」
言わなきゃ分からないのか、こいつは。そんなの決まってるだろうが。
「ここで放り出したら、俺の夢見が悪くなるんだよ」
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