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海辺の風道
カナカナカナと――ヒグラシの鳴く声で、俺は目を覚ました。
運転席を斜めに倒して寝たからか、首筋が痛む。ろくに伸ばせなかった足の関節も軋んだ。
スマホで時刻を確かめる。午前五時半。睡眠時間としては悪くない。
首を固定したまま振り返ると、猫のように身体を丸めたカナが寝ていた。俺がやった掛け布団(寝袋)は、隅の方に追いやられている。あまり寝相は良くないらしい。
昨晩は寝苦しかったのを覚えている。それでもカナは、横になるや寝息を立てていた。想像以上に疲れていたのかもしれない。
ついに俺は、出会ったばかりの女性と、一夜を共にしてしまったわけだ。しかも相手が頼んだのでもなく、自発的に。無いわ。旅先でハイになってるとしか思えない。
今日こそはカナがヒッチハイクできるようにしてやろう。お互いに、その方がいい。これ以上、変な情が移ってしまわないように。
なるべく静かに、俺は車から降りた。半ドアになっているかもしれないが気にしない。
雨上がりの晴天。背伸びと一緒に吸った空気は、湿っぽさがありながらも澄んでいる。視線を落とすと、駐車場のアスファルトが乾き始めていた。
夏でも早朝は肌寒い。北の方へ行けば、さらに気温は下がっていく。風邪は天敵だ。旅において、体調管理は何よりも優先されるからな。
軽めのストレッチで凝り固まった筋肉を解す。
道の駅が開店するのは、早くても九時からだ。それまで待つというのも、もったいない。朝食は違うところで買った方がいいだろう。
「――っと、よし」
そうと決まれば、朝のルーティーンだ。そっと車のトランクを開けて、必要な物を引っ張り出す。夏場の携帯バッテリーはポットしか使わないので、旅が終わるくらいまでなら無くなることはないだろう。
お湯が沸くのを準備しながら待っていると、助手席側のドアが開いた。
「……またラーメン?」
「違う。紅茶だ。パックのだけどな」
眠たそうに口元に手を当てて、カナは欠伸をしていた。ぐっすり眠れて良かったな。
「飲むか?」
「ん……飲む」
さようで。俺は熱湯をマグカップに注いで、紅茶のパックを揺らした。白い容器の中で薄紅色が広がり、花のように香り立つ。
「ちゃんと洗ってあるから安心しろ」
「伊藤のは?」
「あとで飲む。先に歯でも磨いとくよ」
「……そっか。ありがと」
カナは両手でマグカップを受け取ると、何度も息を吹きかけながら冷ましていた。猫舌か。こういう仕草を見ると、なんだか妙な気持ちになる。同年代じゃ結婚して親になってる奴も居るし、父性が芽生えたとしても変じゃない、とは思う。
「……なに?」
「いや、悪い」
さっと顔を背ける。朝っぱらからセクハラ紛いのことするなっての。どうやら俺も寝ぼけているようだ。しゃっきりしないと。
家から持ってきた風呂桶に水を溜めて、排水溝へ持っていく。洗顔と歯磨きを済ませた頃には、カナは飲み終わったカップを持ったまま、腕を広げるように伸ばしていた。
「ほれ、交換だ」
「ん……間接キスとか、しないでよ」
誰がするかい。中学生じゃあるまいし。
=―=―=
早々に道の駅を出た俺達は、ひたすら田畑を貫くような路上で走り続けていた。ちょっとした民家や町工場は目にするものの、コンビニの類は見つからない。都心では考えられないほど道は空いていて、のどかで平坦な景色が流れていく。
「伊藤は、さ」
退屈に負けたのか、カナの方から話し掛けてきた。正面を向いたまま、あたかも独り言のような声量で。
「普段、何してる人なの?」
「まあ……普通のサラリーマンだけど」
「からかってる?」
そういうことが訊きたいんじゃないんだよな。また黙っちまう前に、俺は言葉を足した。
「主に総務だよ。たまに人事もやって……あとは、他部署の手伝いとか」
「なんでも屋さんだ」
「良く言えば、な。実のところ単なる雑用係だが」
やらなくていい仕事まで請け負って、したくもない出世争いに加わって。あげく、他部署の後輩からは面倒事を押し付けられて。何してんだかな、ほんと。
「楽しい?」
「仕事だぞ。楽しいわけないだろ」
好きなことを仕事に出来る奴なんて、ほんの一握りで。やりがいを感じられるかも、成果が無ければ望めやしない。
会社の非生産的な歯車。それが今の業務だ。モチベーションは給料しかない。
「つまんないのに働くんだ?」
「生きていく為にな。もし宝くじでも当たったら、すぐに辞めてやるさ」
「我慢したまま働くなんて、あたしには無理」
俺の軽口は無視して、そう呟いたカナは、シートに寄り掛かりながら目を閉じた。お喋りは終い、ということらしい。
こいつは、仕事を辞めたばかりなんだろうか。前職で辛い目に遭ったのなら、そういった結論になってしまうのも分からなくはない。
そりゃ俺だって、定年まで働くことを考えたら、ぞっとする。だけど、それが何だ。俺の代わりなんて他にも居るし、だからこそ席を譲ってやるつもりはない。
我慢さえしていれば、それで乗り切れるのだから。自分を殺して周りに溶け込む。大人の処世術なんて、そんなもんだ。
ストレスの捌け口は、仕事以外に求めればいい。
いくら理屈で固めても、カナの台詞が頭に残り続けた。
敷かれたレールのように、一直線の道路。街へ出るまでの道のりが、どこまでも長く感じた。
あれから小一時間。俺は左右の窓を僅かに開けた。風と一緒に流れてくる、潮の匂い。
「……海?」
小高い坂道を下るところで見えてきたのは、日本海。流石に港町は活気に満ちていて、車の往来も田んぼ道とは比較にならないほどだ。夏休みを謳歌しているのか、学生っぽい男女が横並びで自転車を漕いでいた。
「休憩がてら、のんびりしてくぞ。ここら辺のコインランドリー、探しといてくれ」
俺は半目のカナに呼びかけて、海の方へ走らせた。
道幅は広く、視界も良好だ。ビルは疎らで、ひしめき合うように建っている都会は、やはり異常なんだと思わされる。
カナに案内されて、大型のコインランドリーに車を停めた。エンジンは掛けたまま、助手席の方を向く。
「じゃ、俺は朝食を買ったりガソリン入れたりしてくるよ」
「……伊藤の洗濯物は」
「まだ替えはあるから平気だ」
なんなら旅行中は洗濯しなくてもいいように積んである。備えあれば憂いなし。だがカナは不服そうに、車を降りようとはしなかった。
「ついでに洗えば」
「待ち時間もあるし、別行動の方が効率いいだろ? 朝食、お前の分も買ってきてやるよ」
「そういう問題じゃない」
「何が?」
「……いいから、伊藤の洗濯物も貸して」
「なんでだよ。意味わからん」
「臭くなるから」
「ジッパーしてるっての!」
「袋を突き破るくらい臭ってくる」
「俺の服は納豆とかクサヤより激臭なのか?」
どうしたんだカナの奴。今までになく拘って。ああ、なるほど。ランドリー代が惜しいから、俺のも洗濯して浮かそうって腹積もりか。ったく、また余計な失費が増えやがる。
「ほれ、千円。これで洗濯できるだろ」
「いい。お金は持ってるから」
「何なんだよ、じゃあ……」
本当に臭いのか、俺。思わず肩口を嗅いでみるも、そこまでの異臭はしてこない。もしかして洗剤か? それなら最近のコインランドリーは自動で投入してくれるから、困らないと思うんだが。
仏頂面のカナはシートベルトをしたまま動こうとしない。大事そうにリュックを抱えて、うつむく。
「……いつ戻ってくるか、わからない」
その一言で――はっとなる。
そういえば、こいつ……コンビニでも、車から降りようとしなかった。あれは俺をパシリにしたかった訳じゃなく、置いていかれるのが嫌だったんだ。温泉施設の大広間に遅れてきたのも、ゆっくりしていただけなのか?
見知らぬ土地で、見知らぬ人しか居ない。そんな環境で運良くヒッチハイクできる確率は、どれくらいだろう。
他人に弱みを見せるのは、怖い。だから回りくどい誘導で、繋ぎ止めようとしたのか。
不器用だ。心底、そう思う。
俺は溜息を吐いて、車から降りた。トランクを開け、ジッパー袋ごと洗濯物を取り出して、再び運転席へと戻る。
「あー……よく考えたら臭えわ、これ。すまん、ついでに洗濯しといてくれ」
カナは顔を上げると、少し笑ったような気がした。
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