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4 幼馴染みの独占欲
「やっとお目覚めかい、ユキ」
オレに壁ドンしたままの失礼な男が、顔だけ振り返りながら幸佑に声をかけた。
(つーか、さっさとこの手を退けやがれ)
壁ドンされてないほうは壁があるから逃げられない。
(じゃあ、下しかねぇか)
そう思ったオレは、ヒョイと腰をかがめて男の腕の下から抜け出した。
「あれ、逃げられちゃったか」
逃げられちゃったか、じゃねぇよ。ニコッとなんて笑いかけんな。そう言いたかったが、幸佑の手前睨むだけに留める。
「何してんの」
「ユキが相手してくれないから、この子に声をかけてたんだよ。たまには毛色の違う子もいいかなと思って」
「その人はそういう相手じゃないよ」
「うん、聞いた。幼馴染みなんだってね。ユキにもそういう人がいたなんて、ちょっと興味惹かれるなぁ」
失礼な男はうっすら笑っていたが、幸佑は全然笑っていなかった。
てっきりこの男もセフレのひとりだと思っていたんだが、違ったんだろうか。いや、セフレでもなければ勝手に部屋に上がり込んだり、あまつさえ冷蔵庫からペットボトルを取り出して勝手に飲んだりはしないはず。
「昨日も言ったけど、俺もうあなたと寝ないから。さっさと帰ってくれないかな」
「そう、それ。ユキが完全にネコやめるって言い出すから、てっきりこの新しいネコちゃんのせいかと思ったんだよね」
「だから違うって言ってるでしょ」
「そうみたいだね。見るからに真面目そうだし、普通だし、そこらへんによくいるタイプだ」
そこらへんに転がってそうで悪かったな。失礼な言い草にもう一度キッと睨めば、どうしてかニコッと笑われてしまった。
「小さくて威勢がよくて、僕を見ても流されないところは普通とは違うけどね。だから興味が湧くなぁと思って」
「ね」と言いながら、男がまた俺の腕を掴んだ。一瞬にして全身の毛がゾワッと総毛立ち、思わず「ひっ」と悲鳴のような声を漏らしてしまった。
「触るな」
(え?)
今度は幸佑にグイッと引っ張られて驚いた。ぽすんと胸に抱き込まれたことにびっくりして見上げた幸佑の顔は、いままで見たことがないくらい表情がない。
「この人は俺とは違う。っていうか、さっさと帰んなよ。どうせかわいいネコたちが他にもたくさんいるでしょ。その子たちに相手してもらえばいいじゃん」
「まぁね。でもユキほど綺麗な子はいないからなぁ」
「残念だけど、俺はもう寝ないから。それに、あなたには二度と会いたくない」
「あらら、嫌われちゃったかな。もしかして、僕がその子に手を出そうとしたから?」
「あなたみたいな人に、この人に近づいてほしくないだけ」
「ま、そういうことにしておこうか」
男がまたうっすらと笑った。俺の腕を掴んだままの幸佑の手に少し力が入る。
「それじゃ、僕は帰るかな」
「もう二度とここには来ないでね」
「最後の逢瀬が楽しめなかったのは残念だけど、しつこくしないのが僕の流儀だからね」
「そこは信用してる」
「あはは、ありがとう。……ところで、最後までその子の名前、言わなかったね」
「教えてあげる必要なんてないでしょ」
肩を竦めた失礼な男は、軽く手を振って部屋を出て行った。幸佑は「バイバイ」と言ってすぐに視線をそらし、オレをソファに引っ張っていく。
「はい、座って。何もされなかった?」
ほっぺたに生温いものが当たったことは事故だと思って忘れることにしよう。そう思ったオレは、何もなかったと頷いた。
「ほんとに?」
「人生初の壁ドンはされたけどな」
「ほんとに何もされてない?」
「されてねぇよ。……つーか、よかったのか?」
「何が?」
「いや、いまのって、その、おまえの……」
「セフレだね。って言っても、会うのは三度目だけど」
三回しか会ってないヤツを簡単に部屋に入れるっていうのはどうなんだ。そう思ったが、それこそ今更かと思って注意するのをやめる。
「でもさっき言ったとおり、もう二度と会わない。あの人も二度とここには来ないから」
「まぁ、そういうことは当人同士の問題だし……」
オレが答えている間に、幸佑は自分のスマホを手にして何やら操作し始めた。
「いま連絡先も消したから」
「は? つーか、そんなんでいいのか? ええと、ほら、一応付き合ってたっていうか、そういう人だったんだろ?」
「付き合うって、ただのセフレだよ? それは向こうもわかってるし、大体いつもこんな感じだから」
本人がそれでいいなら、いいんだろうが……。セフレって本当にそういう関係なんだな、なんて変なところで驚いてしまった。
「驚かせてごめんね」
「いや、オレは全然大丈夫だし。まぁちょっとは驚いたけど」
「男だったから?」
「いや、オレなんかに声かけるとか、変わった人だなと思って」
「あの人もたくさんセフレがいるからね」
興味がなさそうに話す様子にますます驚いた。セフレっていうのはオレが思っているよりドライなんだなと、知らない世界を垣間見た気がする。
「コウちゃん、ほんとごめんね」
「それはもういいって。それより昼飯まだだろ? これから作るけど、食うか?」
「うん、食べたい」
「じゃ、顔洗って着替えてこい」
「うん」
それからオレは予定どおり簡単豆乳スープそうめんを作り、デザートにハーゲンダッツを一緒に食べた。滅多に食べない高級アイスの味に感心しているオレと違い、幸佑は何やらずっと考えている。
セフレとは言え、やっぱり思うところがあるんだろう。そんなことを思いながら、オレは夕飯は何にするかなと冷蔵庫の中身を思い浮かべた。
* *
セフレとうっかり遭遇するという事件が起きてからというもの、どうも幸佑の様子がおかしい。話しかけてもボーッとしていることが増え、そうかと思えばジッとオレを見ていることもある。何か用事かと思って声をかけても「なんでもない」と言いながら、やっぱりジッと見た。
そういえば、失礼な男と遭遇した日から本格的にセフレの陰を見なくなった。部屋に置きっ放しになっていた化粧品だとかも綺麗さっぱりなくなっていて、食器のいくつかもなくなっていた。
この前はハウスクリーニングだとか言う業者の人たちが来ていて、壁やらエアコンやらの大掃除をしていた。どうしたのかと幸佑に訊けば「タバコの臭いがまだ残ってるから」とか何とか説明された。
幸佑はタバコを吸わないから、セフレの誰かが吸っていたんだろう。もう臭いなんて気づかないくらいだったのに、大掛かりな掃除の様子に「金持ちは掃除からして違うんだな」なんてことを思った。
そういった変化は悪いことじゃないだろうし、別にかまわない。だけど、これはどうなんだ。
「なんでいるんだよ」
「お迎え?」
「なんで疑問形なんだよ」
今日は昼前に部屋に行くと、たしかにメッセージを送った。最寄駅に着くと、改札口の側にイケメンが立っていた。周りにはチラチラ見ている女子高生たちや、なんならガッツリ見ているお姉さんもいる。
見慣れた光景だったが、めちゃくちゃ目立っている幸佑の側に行く勇気はオレにもない。若干引きながら立ち止まると、ニコッと笑って手を振りながら近づいて来るから首まで引きつりそうになった。
「この前は夜は危ないとかなんとか言って、駅まで送ってくれたよな」
「マンションから駅までって街灯あるけど、ちょっと薄暗いでしょ?」
話ながら持っていた紙袋を幸佑に奪われた。
なんだ、このさり気なさは。これがイケメンの能力か。つーか、中身は母さんに持たされた食材だから重くはねぇんだけど。
そんなことを思ったものの、せっかく持ってくれているのに拒否するのも悪い気がする。
「じゃあ、真昼間の今日はなんで来たんだよ」
「うーん、なんとなく?」
「だから疑問形で返すな」
見上げながらギロッと睨めば、ニコッと笑顔を返されて「うっ」と息が詰まった。
(くそっ、笑顔がめちゃくちゃ似合うイケメンめ。不覚にも一瞬ドキッとしたじゃねぇか)
こうした駅までの見送りやお迎えは今日が初めてじゃない。すでに何度かされていて、あれだけ外に出るのを面倒くさがっていたのにどういうことだと毎回首を傾げている。
そういえば買い物もそうだ。いつもマンションに行く前にスーパーに寄っていたのに、「俺も一緒に行きたい」と言われて一緒に行くようになった。あまりスーパーに行ったことがないからか、あれこれ質問する姿はまるっきり子どもみたいだなと思った。「昔の幸佑みたいだなぁ」なんて懐かしく思いながら、聞かれたことに一つ一つ答えた。そうして少し長めの買い物を終えると、マンションまでの帰り道では必ず幸佑が荷物を持つ。
もしかしなくても、イケメンというのは荷物持ちが必須なんだろうか。それともオレが頼りなく見えるせいだろうか。一度「そういうことは女の子にしろよ」と言ってみたが、幸佑が「だってやりたいんだもん」と子どもみたいに笑うから、それ以上は何も言えなくなった。
「コウちゃんって、もうすぐ夏休み終わるんだよね?」
部屋に到着すると、そんなことを聞かれた。
「んー、そうだな。あと一週間……、あぁ、講義始まるの十日後だから、それで夏休みは終わりだな」
アプリで予定を確認すると、夏休み明け一発目の講義は十日後になっている。
二ヶ月近くあった夏休みもあと十日ほどで終わりなんだと思うと、やっぱり寂しい。しかし今年は妙な達成感もあった。おそらく自分でも家事の上達を実感しているからだろう。
「ねぇ、夏休み終わったら、もうここには来ないの?」
「一応、夏休みの間って約束だしな。それにいつまでもオレが来てたら、おまえだってやりたいこととかできないだろ?」
「やりたいこと?」
「あー、そのなんだ、ほら、人を呼んだりとかさ」
「セフレのこと?」
「まぁ、そういう人とか、ここんとこずっと会ってないんだろ? オレに遠慮してたんなら、もうしなくていいからな」
「セフレとは全部別れたよ」
「……は?」
「だから、全員別れた」
幸佑の言葉に、思わずそうめんを茹でていた鍋から視線を隣に向けた。
ちなみに今日の昼は、豆乳スープをアレンジした冷製豆乳坦々麺風そうめんだ。昨日、トッピングの具材を作ったから持って行けと母さんに言われて持参した材料もある。
「だから呼ぶ人なんていないよ」
「あー、そっか」
「うん。この部屋に来るのはコウちゃんだけ」
真面目な顔をしているから、話は本当なのだろう。
そこそこな人数がいたに違いないセフレと手を切ったというのは、たぶん悪いことじゃない。このままじゃいつか面倒ごとに巻き込まれていただろうし、いくらイケメンでもそんな男じゃ恋人だってできなかったはずだ。セフレがいつ来ていつ帰るかわからないから、大体いつも玄関の鍵は開けっ放しだったという防犯上の問題も解決する。
(でも、それじゃあ幸佑は寂しくなるんじゃ……)
セフレまでいなくなったら、幸佑と会う人は誰もいなくなってしまうんじゃないだろうか。
「だから、これからもコウちゃんに来てほしい。っていうかコウちゃん、ここに住めばいいのに。うん、そうしよ。コウちゃんも一緒に住もう」
「は?」
「あ、そうめん茹ですぎじゃない?」
「あ、っと、」
「はい、ザル。やけどしたら大変だから、ちょっと退いててね」
そう言った幸佑が、大きめの鍋を掴んでザルにザバッとそうめんと湯を放った。流しの前どころかキッチンに立つことすらなかった幸佑は、少し前から積極的にオレの隣に立つようになった。そして今回のようにあれこれ手伝ってもくれる。
最初はどういう風の吹き回しかと思ったが、どうやらオレが料理をしているのが物珍しかったらしい。そのうち「重いから俺が持つよ」だとか「危ないから俺がやるね」だとか言って手伝うようにもなった。
そういう変化はいいことだと思うが……って、そのことはいまはいい。それよりも何かとんでもないことを言われた気がするんだが。
「はい、水で洗ったよ? スープってこれ? これに入れればいいの?」
「あ、うん、そうめん入れて、最後にこれ載っけて、」
「わぁ、おいしそう。……はい、できた。これ持ってくね?」
「あぁ、うん」
涼しげなガラスの器に盛り付けた料理を持つ幸佑に促され、オレは取りあえず考えることは後回しにして昼飯を食べることにした。
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