番外編その1

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番外編その1

 安芸国高田郡吉田荘にある郡山城に辿りついた花嫁行列は、道行く者が皆一様に目を見張る程、華やかで豪勢なものだった。  輿入れするのが、現在毛利が従属している大内家の養女――大内家重臣内藤興盛の息女であることは、吉田の里に暮らす民草までもが重々承知している。婚礼の花婿は彼らの若殿――既に父親の元就から家督を譲られ、郡山城の主となっている毛利隆元である。れっきとした毛利家の嫡男でありながら、彼は二十代後半になるまで嫁を娶らず、親族や家臣だけではなく、領民さえもをやきもきさせていた。  花嫁行列が無事に郡山にやってきたこの日、吉田の里の民の反応はとても暖かい。この戦国の世において、城主の後継者争いほど、争いの火種になる事案はない。このまま花嫁との間に跡継ぎが生まれてくれれば一気に揉め事の種がなくなるし、暇さえあれば領内を見回って百姓にも気軽に声をかける隆元は、領内での評判もさほど悪くはない――否、かなりよいと言っても過言ではない。 「――しかしまあ、随分と豪勢な行列だったなぁ」  呟いたのは、高瀬舟を使って可愛川を伝い、郡山城下で商売をする商人の一人だった。可愛川と田治比川が交差するこの辺りは霧が発生しやすく、今も夕闇に沈み始めた城は霧の中にたゆっている。花嫁行列を飲み込んで数刻、郡山城では今頃、嫁迎えの宴が盛大に催されていることだろう。 「まあ、大内のお屋形も必死なんだろうな。ここ数年大内の形勢は悪くなる一方だから。精々都ぶりの派手な支度を見せびらかしてやろうという魂胆だろうが」  答えたのは、傍らで商売道具を仕舞っていた同輩の男だった。一生を土地を耕すことに費やす農民とは違って、彼らは時世の流れに聡くなければ生きては行かれない。数年前、出雲出兵に大敗して以来、大内家の地盤沈下は最早隠すことが不可能なまでになっている。そんな中で大内の姫を迎えることは毛利の家にとって、果たして益あることなのか否や。 「まあ、上の人間達の考えることは俺たちにはわからんがね。しかし毛利の若殿様といや、色々評判のある御方だが……」 「まあ、上手くやって行ってくれればいいんだがなあ」  薄闇の中にぼんやりとそびえ立つ城影は応えない。その内で、ほんの微かに灯火にも似たものが揺らめいたようにも見えたが――山の端に沈んで行く夕暮れの名残火が、ほんの気まぐれに瞬いただけなのかもしれなかった。 「――今宵より、どうぞよろしゅうお願い申し上げます」  毛利の家は先祖代々あまり大仰な行事を好まず、婚礼や葬式も質素倹約を第一としている。母の葬儀も数年前にあった弟夫婦の婚礼も、その伝統に違わず身内だけの至極簡素なものだった。  だがさすがに城主の嫁取りともなれば、質素倹約簡素にというわけにもいかない。親戚に姻戚に家臣とその家族に近隣の武将――おおよそ、毛利と付き合いのあるすべての人間を集めた婚礼の宴が終わった頃には、既に深夜と呼べる頃合だった。早寝早起きは武士の子の信条である。婚礼が終わって寝所に向かった時、隆元は正直に言うなら、この堅苦しい着物をさっさと解いて、すぐにでも寝床にもぐりこみたい気分になっていた。  しかしまさか花嫁を迎えた当日に、花婿が高鼾で寝ほうけるわけにもいくまい。腹をくくって今向き合うべき相手に向き合うと、思っていたよりはるかに近いところで、梳き流された黒髪が白い寝間着の上を滑った。  ――随分と……変わったものだ。  彼の妻――大内家の重臣・内藤家の姫君である緋奈姫とは、隆元が元服前、大内家に人質として預けられていた時に出会った。人質を解かれて親元に帰る為に別れた頃、姫君はまだ少女から娘へと変わる途中だった。しかし今、彼女を見て娘と呼ぶ人間はいないだろう。腰より下まで伸びた黒髪も、一度も陽の光を浴びたことがないような白肌も、紅を乗せた唇もどこからどう見ても、艶やかな女性のものだ。  それもそのはず――隆元と姫君の婚約が成立してから十年以上が経過し、隆元は二十七、姫君もとうに二十の歳を越え、武将の娘がこの年齢での嫁入りははっきり言って遅すぎる。緋奈姫とはたびたび文のやり取りをしていたのだが、いつ彼女から「もう待つことは出来ない。他の男に嫁ぐ」と言われるかと思って正直、ここ数年は気が気ではなかった。 「……姫」  ここまで随分と長くかかったものだ……深い感慨と共に口を開いた隆元に、新婚初夜に花婿が受けるにはあまりにふさわしくない――身も蓋もない言葉が降ってきた。 「阿呆」 「……は?」 「我らは今宵、夫婦固めの盃を交わしたのじゃぞ。どこの国に、己の妻を姫君扱いする夫がおるか!」  ――まあ、確かに、いやはや、まったくもってその通り。 「確かに、そうですね。……では、緋奈」  心してその名を口にすると、向かい合った女性の顔が火を吹くように赤く染まった。握り締めた拳がわなわなと震え、かみ締めすぎた唇の色が変わっている。多少は動揺してくれるかと思ったが、いくら何でも、こここまでの反応は予想していなかった。あまりの顕著な反応に思わず、隆元は腹をかかえて笑ってしまった。 「貴女が呼べと言ったのでしょうが」 「奥でも方でも、呼び方なんぞいくらでもあるであろう!な……何もいきなり呼び捨てにしなくともよかろうが」  腹を抱えて笑いながら、今日のこの日、姫君と再会してから抱き続けてきた奇妙な違和感が溶けて消えて行くのを感じた。隆元にも妹がいるので、少女から娘へ、娘から女性へ、女子が男より劇的な変化を遂げることは知っていた。だが実際その変わりようを目の当たりにすると、蛹が蝶に羽化するような、彼女が彼女ではないものに変わってしまったような、そこはかとない違和感が拭いきれずにいたのだ。  ああ、間違いない。ちっとも、違ってなどいない。彼女は間違いなく隆元が出会い――心惹かれたあの姫君だ。  貴婦人にはあるまじきほど真っ赤にそまった膨れ面に指を伸ばすと、姫君の反応が止まった。 「一度、呼んでみたかったんです。あの頃、俺には……その資格がなかったから」  人質に出された毛利の嫡男と、大国大内家の重臣の姫君。あの頃はただ互いに身を寄せ合い、震えることしかできないただの子供だった。  だが今は違う。紆余曲折を経て、毛利は充分に西国で一目置かれる存在になったし、隆元自身も既に何もできないことを嘆くだけの子供ではない。今度はこの手で守り抜いてみせる。自分自身の未来も、彼女のこれからも。――そしてこれから生まれてくるであろう、彼らの子ども達も。  いざ、こちらへ。姫君の手を引いて寝所に誘うと、どんな香を使っているのか、かぐわしい匂いが辺りに立ち昇った。春の光を浴びて輝く花の香だ。真新しい夜具の端に座ってその香りにしばらく酔っていると、胸の内の身体から、再び身も蓋もない言葉が沸いて出た。 「あ……あの、その、もしかして、するのか?」 「は?」 「そ、その……いわゆる、子作りじゃ」 「ええ、まあ、俺にも跡継ぎは必要なので」  言っていることにまったく間違いはないのだが、いくらなんでも今のこの場でそこまではっきり口に出さないで欲しい。困り果てた隆元の胸から身を離し、姫君は驚くようなことをのたまった。 「山口を出る前、お屋形さまが仰っておったのじゃ。郡山城下では、隆元は女子が駄目だというもっぱらの噂だから、一生子は授からぬ覚悟をしておけと……」  何か液体を口にしていなくてよかった。寝所に用意されている酒肴や茶でも口にしていたなら、思い切り吹き出していただろうし、自室で書き物でもしている時ならば、きっと卓に思い切り額を打ち付けていた。  二十を過ぎても縁談も、側室の勧めも延々断り続けてきたので、城内どころか城下でも、堅物だの偏屈だのと評判がたっているのは知っていた。しかしまさか、当の本人が知らないところで、そこまで言われていたとは。  思わず頭を抱えこみたくなったが、かろうじて堪えて、己が頭を抱くかわりに、腕を伸ばして黒く艶やかな髪を梳く。耳元にそっと唇を寄せると、胸のうちのかぐわしい香りが、そうとわかるほど大きく震えた。 「……あなたは、それでいいのか?」 「隆元殿?」 「わざわざ、子どもを望めない男に嫁ぐ為に、こんな遠くまでやってきたのか?」  一応、健康な男が健全に抱く種類の欲望は隆元にもある。いずれ最愛の人を腕に抱くまでの辛抱だと思って耐えていただけなのだが、ここはきちんと確認しておいた方がよいかもしれない。  黒く濡れた瞳に映る顔は、我ながらかなり切羽詰まっていた。ここで子作りしたくないと言われたらどうしようか……と真剣に悩んでいると、姫君も隆元に負けないくらい、とても真剣な顔で口を開いた。 「……それでもよい。子など出来なくともいいから、ずっと隆元殿の側に置いてくれ」 「そうか。ならば、俺の後継ぎはあなたが産んでくれ。――そうでなければ、俺が困る」  常から大きな瞳が零れ落ちんばかりに見開かれた。その瞳に映った自分の姿に笑いかけているうちに、姫君の――否、彼の妻の唇が柔らかく綻ぶ。 「の……望みに任そう」  灯火が消されて辺りが闇に沈んだ瞬間、夜霧の向こうを梟の啼く声がした。  吉田の里に、毛利の若殿は奥方にべた惚れだとの噂が持ち上がるのは、それからもう間もなくのことである。
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