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 弟が花嫁を連れて帰ってきたのは、秋の終わりのことだった。  安芸の里を彩る紅葉は盛りを過ぎ、既にすべての葉を落とし、黒々とした地肌をむき出しにした枝もある。枝から地上に降り立った栗鼠の頬袋は、冬支度の木の実ではち切れそうだ。今年は天候が穏やかで、領内で目立った戦も起こらなかった。収穫を終えた田畑を歩む領民達の顔は心なしか穏やかだ。 「誤解だ、沙紀殿!俺はただ話をしていただけで――」 「お話されるのに、あれほど近づかなければならないのですか?その上、元春様の嬉しそうなお顔と言ったら!」  その日、いつものように領内の視察を終え、居城である郡山城に戻ってきた毛利隆元は、離れの方角から聞こえてきたやりとりに、歩みを止めた。 「……また、やっているのか。あの二人は」 「は、次郎様が家臣の娘や侍女達の世話を焼くのが、姫様のお気に召さないようで……」  視察に付き添わず城に残っていた家臣の一人が、苦笑と共にいう。七歳下の弟である元春は昔から人懐こい性格で、男女を問わず家臣や領民に人気があった。正式に吉川家の養子になることが決まり、妻も娶った今となっては、側室でもいいので吉川に連れていってくれと、近づいてくる者もいる。若い義妹がやきもきするのも無理はない。  はじめの頃は兄貴面して弟に苦言の一つも呈していたのだが、そんなやりとりが恒例行事になるにつれて、間に入るのも止めてしまった。どうせ放っておいても、一刻か二刻もたてばもとの睦まじい夫婦に戻るのだ。何が悲しくて新婚夫婦の痴話げんかの仲裁などしなければならぬ。  案の定、隆元が白湯で口を潤して一息ついた頃には、夫婦喧嘩の声は聞こえなくなっていた。かわりに衣擦れの音と、何事か囁く低い笑い声がする。どうやら誤解が解けて元の鞘に収まったらしいが、まったく、二十を過ぎていまだ独り身のこちらの気持ちも少しは考えてもらいたい。 「――羨ましいか?隆元よ」 「父上」  心底呆れた心持で口元を拭っていると、背後に人の立つ気配があった。毛利の家督こそ隆元に譲ったものの、実質上の城主は未だ父親の元就である。父の知略や戦術には到底及ばぬ自覚があるので、隆元にそのことを不服に思う気はない。だが、安芸にこの人あると知られる武将は最近、とみに好々爺じみてきた。毛利家の子供は三男一女、一人娘の妹を嫁に出してから娘というものを持たずにきた父は、次男坊の嫁が可愛くて仕方ないらしい。 「そなたの嫁になりたい娘なら、領内に大勢おるのだ。どうだ?側室で良ければ、今すぐにでも二、三人見繕うぞ」 「――父上」  表情は穏やかに、だが口調だけはきっぱりと隆元は言う。 「お心配りには感謝いたします。……ですが」  ――大丈夫。大丈夫。きっと何もかもうまく行く。  視界を閉ざせば今も耳奥に、あの日の言葉が蘇る。今よりもずっと幼かったあの日、巣から落ちた小鳥の雛のように、二人で抱き合ったまま一晩中震え続けた。  ――大丈夫。俺は待てるよ。いつまでだって。 「私には心に決めた女がおります故」
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