番外編その2

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番外編その2

 長く独り身を通していた兄の隆元がついに妻帯する。  その報せを元春は吉川家の居城である小倉山城で聞いた。  吉川元春は毛利元就と正室との間に次男として生まれた。父の命令により母親の実家である吉川家に養子に行き、今は吉川の家督を継ぐ立場にある――と言えば聞こえはいいのだが、当時の吉川家には立派に成人した当主と嫡男がいたので、まごうことなき簒奪である。当然のことながら吉川の家中は反発し、元春も命を狙われ一度は毛利の居城である郡山城に逃げ帰った。できることならもう養子先に行きたくないと散々駄々をこね、城を逃げ出しては父を困らせていたのは、もう五年近くは昔の話だ。  今、正式に吉川家の人間となって吉川の城で暮らす元春は一人ではない。芯を絞った灯火の下、幼子を寝かしつけていた彼の妻が顔を上げ、舅・元就から届いた文を覗き込んでいる。 「まあ。お義姉様になられる方は西国一の美姫……なのですか」  家督を兄に譲って暇になったのか、あるいは単なる筆まめなのか、元春が毛利の家を出て以来、元就はしょっちゅう手紙を送ってくるようになった。下手をすれば三日と空けずに届く上に、一つ一つの文が日記のように長い。元春も最初の頃は律儀に毎回返事をしていたのだが、そのうち面倒くさくなって返事を書くのをやめてしまった。それでも十日にいっぺんは文がやってくるのだから……どうやら、現在の毛利元就はすっかり暇で時間をもてあました隠居老人であるらしい。 「おめでとうございます。すぐに侍女達に申しつけて祝いの品を用意させますね」 「ああ。兄上はずっとその方一筋だったからさ。……さぞかし、喜んでるだろうなぁ」  兄・隆元のお相手は、人質として山口で暮していた時に知り合った大内家の重臣・内藤家の息女である。本来なら兄弟の結婚は年齢順であるはずなのに、諸般の事情から兄の許嫁はなかなか郡山にやってこられず、姉が先に嫁に行き、弟の元春のさえも兄より早くに妻を娶ることとなった。小早川家に養子に行った三男坊の弟にも最近どうやら相愛の相手がいるようなので、このままでは年の離れた末弟にまでも追い抜かれるのではないか……と密かに心配していたのだが、このたびようやく、花嫁が郡山にやってくる日取りが決定したらしい。  兄は長男であるというだけで跡継ぎの座が確定していて、次男の自分はむこうから望まれてもいないのに他家に養子に追いやられて、辛い思いをしている。正直に言うなら妬んだこともある。だが自分自身が子を持つ親となった今、当時の父の思いがほんの少し理解ができるようになった。  この戦国乱世において、兄弟間の相剋など珍しい話ではない。現実に父の元就も家督を継ぐ際に、異母弟を殺している。元就は自身の次男と三男を他家に出すことで、兄弟間の争いを未然に防ぎたかったのだろう。  七つも年が離れている所為で、あまり腹を割って話したことがない兄弟だったが、元春が郡山を出る前日、隆元は珍しく酒を持って元春の居室を訪れて、兄弟二人で朝までしみじみと語り合った。遠い山口の地に相愛の姫がいて、その姫がどれほど美しく気高い女子であるか、隆元は珍しく酔った口調で滔々と語っていたし、こちらはこちらで新婚の妻の可愛らしさを存分にのろけさせてもらった。――今となっては、とてもよい思い出である。  しみじみと思い出し笑いをしている元春の眼前で、幼子がころんと寝返りをうって、小さな拳が上掛けからはみ出した。妻の沙紀がその手を布団の中に戻してやって、その額をとても愛おしそうに撫でている。  武将の正室の育児は乳母任せが通常だが、彼女は生まれた我が子に乳を含ませ、襁褓を変えて、自らの居室でほぼ一緒に生活している。そんな二人を間近で見るのがとても幸せで、元春も夜はほとんど妻子と枕を並べて休んでいた。城主が家臣の娘を側室にして子を生ませるのは己の欲の為だけでなく、家中の結束を深める意味もあるのだが、まったくそんな気になれそうもない。父も母が亡くなるまで側室を持たずにいたくらいだし、自分の妻は一生、彼女一人だろうと予感している。 「婚礼には元春様も行かれるのですよね。――お美しいお義姉様を見て、お心が迷わなければいいのですけど」 「おいおい沙紀殿、そんな訳ないだろう。俺はそなた一筋だ。知っているだろ?」  元春のおどけた言葉に、仄明りの中で顔を上げた妻が柔らかく微笑む。  妻は元春の実家からほど近いところにある、三入高松城の熊谷家の長女である。結婚前、近隣の人々から「天下の醜女」などと呼ばれていた。その噂を聞いて会いに行った元春は彼女を一目見て「いや、全然、醜くないし。むしろ可愛いし」と思った。あの娘と結婚させてくれなければ吉川の城には行かないと駄々をこねた元春に呆れながらも、高松城に赴いて縁談をまとめてくれた父には今も感謝で頭が上がらない。  今、人の妻となり母となった彼女はあの頃の可愛らしさだけでなく、女性の色香をも身にまとうようになった。彼女が一緒に来てくれなかったなら、伏魔殿のように嫌な思い出しかない小倉山城での生活は、ただただ辛いだけのものになっていたことだろう。  もう今の元春は、辛いと泣いて逃げることが許される子どもではない。きっかけは父に押し付けられた養子縁組であったとしても、受け入れた以上はこの城の中で、自らの居場所を確実に築いて行かなければならない。  その為にもできればもう何人か、血を分けた子どもがほしい。夫妻の最初の子どもはもうじき二歳――もうそろそろ次の子を望んでもよいだろうか。  腕を伸ばして抱き寄せると、沙紀は素直に元春の胸に身を委ねた。灯火を吹き消して、二人で優しい闇の中に横たわる。ずっと離れていた相愛の男女がようやく夫婦になるのだ。兄夫婦にもきっと近いうちに子宝が授かることだろう。いつか自分の子ども達を郡山城に連れていって、従兄弟達と一緒に遊ばせてやろう。  毛利隆元が四十代の若さで早世し、若年の嫡男・幸鶴丸が家督を継いだ際、二人の弟――吉川元春と小早川隆景は自らの家督を求めず、幼い甥を支える役割を担った。  有名な三本の矢の逸話は後世の創作といわれているが、元就が正室腹の三人の息子に残した三子教訓状は、兄弟の結束の大切さを現代にまで語り継いでいる。
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