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 ――家の名を捨てても構わぬと、父は言った。  毛利の名も武士の誇りも捨てて構わない。いざとなれば刀を捨て、百姓に混じってでも生き延びろ。  故郷の安芸を離れる前夜、人払いを済ませた吉田郡山城の一角で、嫡男にむけてそう言い放った父は、己が息子が近い将来、命と家名を秤にかける日がやってくることを予見していたのだろうか。    濃灰色の空間にぽかりと浮かんだ白い面からは、確かに、あるはずのない哀愁や哀切が感じられた。金糸や銀糸をふんだんに使った衣装よりも、きらびやかに飾り立てられた舞台よりも、白い面をつけた生身の身体が表現する感情の鋭さに少年は圧倒された。 「はじめての能はどうだ。隆元よ」  声もなく舞台を見つめる隆元に、太宰大弐――大内義隆が声をかける。大内家は代々、都との係わりが深い。先代の義興は将軍を保護して上洛したこともあり、また戦を逃れて西に落ち延びた公家も多く、本拠地である山口は「西の京」と呼ばれるほどだ。  現在の当主である大内義隆はその中でも特に文化的な人間で、茶道や能など芸術面にも造詣が深い。人質である毛利の倅をわざわざ能の宴に呼んだのも、義隆という男の懐の深さの表れだろう。 「どうだ。美しいだろう。目がくらんだか?」 「誠に……美しゅうございます」  衣装は荘厳で、湯水のように金を使った舞台も、熟練の奏者が奏でる笛や小鼓の音も、吉田の山里にいては決して見ることのできないものだ。  確かに、美しい。――だが。  お館様主催の能の宴とあって、大内義隆の居城である築山屋形には、大内家の家臣や重臣、大内に所縁ある有力公家達が一斉に顔を揃えている。だが今、ここに集まった彼らの心境は決して一様ではない。  大内家と都との距離はかねてから近しいが、義隆の都かぶれ、京びいきには少々目に余るものがある。仮にも部門の棟梁としていかがなものか。山口にやってきて間もなく、隆元は大内家の家中に流れる不穏な風を感じ取っていた。大内譜代の重臣達の表情は、どちらかといえば、苦い。  一方の公家達はといえば、自分たちの庇護者であるお館様を取り囲んで、ごますり追従に余念がない。白塗り顔に囲まれて盃を傾ける大内義隆の顔は、完全にその中に溶け込んで見えた。  ――父上、本当によろしいのですか……?  元就が隆元を山口に預けたのは、尼子と大内の二強に挟まれた安芸の地において、どうしても、どちらか一方に擦り寄る必要性があったからだ。父は尼子より大内を選んだ。だが今、毛利が何よりも頼みとしている大内家も一皮向けば決して一枚岩ではない。  苦い思いを押し殺してあたりをうかがっていると、義隆の間近で、父親の内藤興盛に連れられた緋奈姫と目があった。この宴の為にあつらえたのだろう。桜の花びらをあしらった薄紅色の打掛を着て、薄く化粧を施している。  姫の父親である内藤興盛は、義隆の都かぶれを快く思わない重臣の筆頭でもある。公家の中に溶け込んだ義隆を見る興盛の視線は決して快くはない。  今、この場の奥底に漂う不穏な空気に気がつかないほど、彼女は幼くはない。しばし隆元と見つめ合った後、おもむろに姫君はその場に立ち上がった。長い袖をひらりとはためかせ、澄んだ声を張り上げる。 「お館様!お館様!見て下され!この着物、今日の日の為に、父上が新たに作って下さったのじゃ!」  白塗り顔に取り囲まれていた義隆の相貌が崩れた。正室にもあまたの側室にも娘がいない所為もあって、義隆はこの親戚の娘を実の娘のように可愛がっている。 「おお、緋奈よ。そなたは相変わらず美しいの」 「帯も見てくださるか?こちらは母上が見立ててくれたのじゃ」 「わかった、わかった、――これ、そんなに袖を引っ張るな」  姫君に袖を引かれ、義隆が公家達の輪を離れる。これがもう少し年長の女ならば、しなだれかかるとでもいうのだろうが、隆元より年少の少女はまだ女の色香にはかなり乏しい。だが今、自分より年長の男の袖を掴んで歩く姫君の横顔は、年齢よりもずっと大人びて見えた。
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