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 ちょっとした出来事が起こったのは、能の宴から数日後のことだった。  隆元が育った郡山城は山を切り開いて出来た城で、城内に生えている木や流れる水は元からそこにあったもの、石垣や垣根は戦略上の必要からあつらえられたものに過ぎない。木や水や石を人の目が楽しむ為に配置した庭という名の芸術は、山口にやってきてはじめて知ったものだ。  毛利の父からの届いた貢物を大内義隆に手渡した帰り道、築山屋形の庭を散策していた隆元は、芸術的に配置された庭木の向こうに、あまり会いたくなかった人物の姿を認めて歩みを止めた。  現れた人物は内藤家と並ぶ大内家の重臣、陶家の嫡男陶隆房である。彼もまた気楽な散策の途中だったのか、今日はいつもの取り巻き連中も家臣も連れていない。  年の頃はさほど変わらぬ少年同士だが、置かれた立場には雲泥の差がある。道を譲って一礼すると、例によって例のごとく侮蔑の言葉が降ってきた。 「――毛利の山猿が、こんなところに何の用だ」 「……」  一体どうしてここまで嫌われたものか、正直、隆元にはてんで見当がつかない。陶家は山口における毛利の窓口とも言える家であり、はじめに山口にやってきて挨拶に行った時には、隆房や父親の興房の反応も悪くはなかった――のだが。 「猿はさっさと山に帰れ。この庭は猿山ではないぞ」  挑発に乗ってこちらが我を忘れようものなら、諍いは家と家との問題――大内と毛利の問題にすり替わる。いつもなら、散々侮蔑の言葉を吐き捨てれば、満足して立ち去って行く。しかし余程虫の居所が悪かったのか、今日の少年の態度はいつもとは違った。 「おい、お前、姫がいなければ反論もできないのかよ!」  襟首を掴まれ、背後の木の幹に背中を押し付けられた。そのまま強く締め付けられ、目の前に霞がかかる。 「……お放し下さい、隆房殿……」 「姫やお館様に気に入られているからって、付け上がるなよ。――ああ、もっとも、姫君はお館様の妾の座を狙っているわけだから、お前になんか目もくれないか」 「――貴様!」  姫が人目もはばからずに義隆に甘えるのは、父親と義隆との間に漂う暗雲を振り払わんが為の彼女なりの戦いだ。刀を取って戦場を駆けるだけが戦ではない。女達もまた戦っている。孤立無援の戦場でたった一人で。  山里育ちの運動能力を甘く見てはいけない。襟元を掴んだ拳を逆に握ると、呆気なく身体の向きが入れ替わった。家の大小に係わらず、武家の子息に武芸は必須だ。隆元の拳が隆房の鳩尾を打ち、同時、隆房の膝が隆元の脚を払った。  そのままもつれ合うようにして、二人で敷き詰められた白砂利の上に転がった。上になり下になり、殴られたり殴り返したり、どれだけの時間が経過しただろう。家の名や立場を捨ててしまうと、そこにはただ生身の身体と心だけが残る。何度目かに隆元が握り締めた拳を振り上げた瞬間、ぽつりと呟く声がした。 「能の宴……」 「……?」 「どうしてお前なんかが、俺よりお館様の近くにいるんだ……!」  これまでとは声質からして違う少年らしい呟きに、隆房の父が病みついていて、もう長くはないと言われていることを思い出した。父親が亡くなれば後を継ぐのは嫡男の隆房であり、少年は少年なりに、目に見えない重責に耐え続けているのかもしれない。 「どうしてお前なんが、俺よりお館様に気に入られて……」 「隆房殿……」  陶家の主である興房は文武両道の優れた人物で、大内家での人望も厚い。大きすぎる父親の存在と、周囲の期待に押しつぶされてもがく姿は間違いなく、そう遠くない未来の隆元自身の姿でもある。  振り上げかけた拳が、途中で止まった。
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