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 本拠地の出雲を出立した尼子軍が、今まさに郡山に到達しようとしている。  その報せを受け取った明くる日には、隆元は身柄を築山屋形の一角に移され、厳重な監視の下にいた。  折しも夕刻頃から降り出した雨に雷鳴が混じり、吹き荒れる風が土塊や小石を音をたてて巻き上げている。人間なら誰もが頭を抱えて家の中に逃げ出したくなるような空模様の下、監視にあたる人間達もたまったものではなかろうが、松明の朧明りに浮かぶ人影の数に、今のところ変動はないようだ。  枯山水の掛け軸も置き壷もない殺風景な部屋の中、眠れぬまま寝床の上に置き上がって、障子で揺れる無数の影に目を向ける。隆元が大内に在るのは、有事の際に大内の後ろ盾を頼んだ故のこと、大内が毛利を見捨てるのなら、彼が今ここにある意味はない。  ――父上、母上、次郎、徳寿丸……。  決して心地よいばかりの家ではなかった。父のことは人並みに尊敬していたが、尼子と大内の間で右往左往する姿を情けなく感じたこともあったし、母の小言はひたすら煩わしく、まとわりついてくる弟達に苛立って、邪険に扱ったこともある。  それでも郡山を立つ前夜、隆元を居室に呼んだ父の目には光るものがあったし、母はとうに自分の背丈を追い越した息子を抱いて離さなかった。幼い弟妹達は隆元の乗った馬が見えなくなってもなお、小さな手を振り続けていてくれた――。 「俺さえいなければ……」  思わず、本音が口をついて出る。  隆元さえいなければ父は尼子に降伏することができる。隆元の母は尼子方の吉川家の出身なので、毛利の尼子への寝返りは今なお、不可能な話ではない。  無論、大内とてそれくらいのことは重々承知している。その為のこの軟禁である。元就が尼子に屈する気配あれば、隆元は首を刎ねられるか磔にされるか――見せしめとして最も過酷な方法で、命を奪われる。  枕元にあった短刀を引き抜いて、その刀身に己が姿を映し出す。白々と光る金属の内側で、汗まみれの額に髪を貼り付けた少年が、全身を惨めなほど震わせていた。  どこをどう斬れば、人の息の根は止まるのだったか。冷えた切っ先を喉元に押し当ててみた瞬間、するりと障子が開いた。 「――何をしておるのじゃ」 「姫……?」  またもやお忍びで内藤館を抜け出てきたのか。夜着の上に小袖を被っただけの軽装で、小さな足は土と泥で汚れている。 「どうやって、ここに……」  人質である隆元の居室への人の出入りは厳重に監視されている。大内屋形の周囲なら勝手知ったる姫君でも、そう簡単に出入りはできないはずなのに。 「隆房が手配してくれたのじゃ。これで借りは返したと言っていたが……そなたら、いつの間に仲良うなった?」  数ヶ月前、後先も考えずに殴りあった少年と、仲良くなったつもりは毛頭ない。ただあの一件以来、隆房がこれまでのように露骨に隆元に突っかかってくることはなくなっていた。父親が亡くなり、正式に陶家の当主となってそれどころではないのだろうと思っていたが、隆房の中では何か大きな心境の変化があったのだろうか。  確かに――内藤と陶の双方の力を使えば、一時見張りの目を緩めるくらいは容易いかもしれない。  あまりに驚いた所為で、ほんの一瞬、刀を抜いたままであることを失念していた。動いた拍子に切っ先が擦れて、一筋、赤いものが着物の袖に染みこむ。  しばし無言で隆元を見つめた後、緋奈姫はすとんとその場に膝を突いた。姫君が脱ぎ捨てた小袖が肩を包み込み、微かな花の香が、隆元の鼻先を漂った。 「……そなたは、阿呆か?」 「は?」 「こんなところで、一人で何をぼーっと呆けておるのじゃ。早くその着物をまとって、わたしのふりをしてここを抜け出すのじゃ。外れに馬が止めてある。今夜中に山口を出られれば、誰もそなたを追っては来るまい」  あの海辺での出来事以来、こうして姫君と顔を合わせるのはこれがはじめてのことだった。いや、海辺での出来事以前だって、二人きりで顔を合わせたことなど一度もなかった。いつも他に誰かがいる場所で、目線を交わし、口元を綻ばせ、ただそれだけのことで、どれだけ心が安らいだことか。 「それは……できませぬ」 「隆元殿……?」  隆元の応えが余程意外だったのか、見開いた姫君の瞳の奥に揺れるものが見える。怒っているのではない。泣き出しそうになるのを、必死で押し殺しているのだ。 「私の父はお館様も認める程の戦上手ですので。きっと今頃には、尼子の軍を押し返していることでしょう」  おどけたようにそう言って、花の香りのする着物で細い肩を押し包む。少し躊躇って、細い身体を胸の内に抱き寄せてみた。隆元の無体を姫君は拒絶しなかった。氷のように冷え切った白い指が、まるでそれがこの世の果てでみた最後の救いであるかのように、胸元にきつくしがみついてくる。 「大丈夫です」 「だいじょうぶ……?」 「……ええ。きっと、大丈夫です」  尼子の軍勢にとって毛利など一のみ、間もなく毛利は滅亡し、尼子と大内の一騎打ちとなる。山口の人間は皆そう思っているし、実際、わざわざ言葉に出して隆元に告げに来る者もいる。これまで誰も――ただの一人たりとも、毛利が尼子を倒せるなどと、口に出して言った者はいなかった。 「大丈夫……きっと、きっと大丈夫」  今、耳元で唸っているのは、故郷を踏み荒らす軍馬の嘶きだろうか。今、そこで砕けて散ったのは父母の屍か、それとも弟の骨なのか。 「だいじょうぶ。……きっと上手く行く」  はじめは隆元が少女を抱いていたが、いつしか少女が隆元を抱いていた。終わることのない夜の片隅で。ただひたすらに。祈るかのように。
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