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 結局、郡山に向かっていた尼子の軍勢は、毛利の決死の抗戦によって撤退を余儀なくされた。とはいえ尼子はすぐに第二陣の派兵を決定しており、依然、状況はまったく予断を許さない。  予断の許さぬ状況の中、山口の地にはささやかな変化があった。ろくな援軍もなしに尼子を撃退した毛利の戦いぶりに気を良くした義隆が、隆元の帰還を決定したのだ。それもただの帰還ではない。大内家重臣陶隆房らと共に、軍勢を引き連れての三年ぶりの帰郷である。   毛利と大内の間で、何度早馬と文が行き来しただろう。慌しく準備が整い、決定から一月たたぬうちに、隆元はささやかな宴の席にあった。 「――隆元よ。家族に土産は用意したか」  三年を過ごした山口との別れの夜、築山屋形には、大内義隆をはじめ、陶隆房、内藤興盛ら大内家の重臣が顔を揃えている。重臣達の家族――娶ったばかりの隆房の正室や、緋奈姫もまた、父親に連れられていた。隆元の郡山への帰還に合わせて、少なくない数の武将が山口を旅立つ。彼らにとっては父兄息子との別れの席だ。 「――は。ご厚情誠にに感謝いたします」  大内からは餞別にかなりの金銭が与えられたので、母と弟妹には着物を、父には硯と筆を用意した。  そう告げると、盃を傾けながら、義隆は盛大に破顔した。 「そうか。そうか。後は自分の土産に、何か欲しいものはないか。何しろ、今度はいつ山口に来られるかわからないのだからな」  いつ山口に来られるどころか、郡山に戻った途端に尼子に攻撃されて、二度と太陽を見られないかもしれない。血が滲むほど強く唇をかみ締めて、隆元は義隆に向き直った。 「お言葉に甘えて……頂戴したいものが御座います」  それぞれに盃を酌み交わしていた一同の空気が、一瞬にして固まった。それはそうだろう。ようやく人質生活を終えて親元に帰る前夜、下手なことを言って、義隆の機嫌を損ねれば、帰還も、毛利への援軍も台無しになりかねない。 「ほう。何が欲しい。言ってみよ」  痛いほどの視線を全身に受けながら、隆元はその場に平伏した。 「――内藤興盛様がご息女、緋奈姫様を、我が妻に賜りたく思います」  ――くつくつくつ。  誰かが喉を震わす音がする。痛い程の視線を全身に浴びながら、平伏していた所為で、初めは、誰が笑っているのかわからなかった。恐る恐る首を上げて、隆元は笑っているのが今この場で最も上座にある男――大内義隆であることを悟った。  孔雀の羽飾りのついた渡来品の扇を片手に、心底おかしくてたまらない、といった顔をしている。たかだか人質の分際で主家の姫を――それもとうに許婚のいる――を欲しいと言い出したのだ。激昂され、この場で切り殺されても不思議はない。だが、義隆は今、確かに笑っている。文弱で公家好みなだけの男ではない。隆元はほんの一瞬、西国の雄、大内家を束ねる男の底知れなさを垣間見た気がした。 「――緋奈よ」  いまだ喉仏を震わせたまま、少し離れたところに座った姫君に視線を向ける。姫君は牡丹の花をあしらった豪奢な打掛を着ていた。少し前より髪も伸び、装いは既に少女ではなく娘のものだ。 「隆元がそなたを妻に欲しいと言っておる。そなた、毛利に嫁に行く気はあるか?」  いつかの宴のような、花のような笑顔も嬌声もなかった。立ち上がった姫君は隆元の隣に膝を落とし、三つ指をついた。 「――わたくしは、隆元様の妻になりとうございます」  凛と鈴を鳴らしたような声が響いて、肩先と肩先が触れ合う。討たれる時は共に。彼女の覚悟を見た気がして、隆元も額を床に押し当てる。 ぱちん、と扇を閉ざす音がして、再び首を上げた時、義隆の視線は既に隆元の上にはなかった。 「皆の者――」  義隆の見渡す先、姫の父親である内藤興盛は娘に取り残され、ただただ呆気に取られて呆然としている。その他、歴戦の兵達もさすがにこの展開は予想していなかったと見えて、ひたすら目を白黒していた。 「隆元は緋奈を妻に欲しいと言う。緋奈は隆元の妻になりたいという。どうだ、似合いの夫婦雛だとは思わぬか」  吐息に似たものがどこからともなく沸いてきて、辺りを圧し包んだ。めでたい、と誰かが呟いた途端、吐息は弾けたような歓声に変わる。 「お館様お声がかりの縁組じゃ。めでたい。めでた――」  寿ぐ声が半ばで途切れた。立ち上がった義隆がおもむろに刀の柄に手をかけた所為だ。  金属が空気を切る独特の音が響いて、灯火が激しく揺らめく。湧き出た汗が背筋を滴り落ちた時、隆元の喉に触れたのは白刃ではなく、閉ざした扇の先端だった。  ひやりと冷えたものが顎下に押し当てられる。決して目を逸らすまいと思っていたのに、実際にはほんのわずかの間、視界を閉ざしていたのかもしれない。一体、いつのまに刀が扇に摩り替わったのか、見当もつかない。 「――毛利少輔太郎隆元よ」 「は……」 「望みに任せ、我が姫をくれてやろう。そなたは我が娘婿じゃ。大内の一員として、必ずや尼子を討ち払ってみせよ」  姫君を嫁に出すのは今すぐではなく、毛利が尼子を撃退した暁ということであり、従属している主家の姫を嫁に貰うとなれば、毛利は決して尼子に降伏できない。これも一種の政略結婚ではある。  何はともあれ、こうして毛利の嫡男と内藤家息女の婚約が整い――  祝宴は明け方まで続いた。
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