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 物思いに浸っているうちに、西の空に茜がかかった。ねぐらに戻る鴉が群れをなして吉田の里を横切って行く。  吹き抜ける風に冬の息吹が混ざる。昼日中の気温も大分低くなったので、もうそろそろ初霜が見られるかもしれない。 「――兄上」  白湯を含んだ唇を拳で拭っていると、いつの間にか、先ほどまで夫婦喧嘩に励んでいたはずの弟が立っていた。何だかさっき見た時と着ているものが違わないか……と訝んでいると、着物の襟元を摘み上げ、満面の笑みでのたまう。 「兄上、見てください。これ、沙紀殿が俺の為に縫ってくれたんですよ!」 「――おやめください。もう、元春様ったら!」  そんなことを自慢する為にわざわざ着替えてきたのか。呆れ果てたた兄が口を開くより早く新妻が駆けてき寄ってきて、夫の袖先を掴んで連れて行った。弟の妻は耳朶まで、夕焼け空より真っ赤に染めている。この可愛らしい娘を捕まえて、一体どこの誰が天下の醜女などと言ったのかと疑いたくなるが、もう何年でも末永く勝手にやっていてくれ、としか言いようがない。  隆元が郡山に戻って間もなく、二回目の尼子軍の遠征があり、郡山城下は戦火に包まれた。その後、出雲に遠征した大内軍が大敗を喫し、安芸を含む西国の情勢図が変わったことなどもあり、隆元と姫君は関係は未だに許婚であり――今なお、許婚でしかない。  いつしか隆元は二十の歳を過ぎ、姫君もとうに結婚適齢期を過ぎてしまった。それでも隆元に他の女子を妻に迎えるつもりはさらさらなく、緋奈姫も山口の地で、嫁き遅れの悪口を蹴飛ばして歩いているらしい。  ――大丈夫。いつの日か、きっとまた会える。  飛び立つ鴉の一羽が一際大きく啼いて、黒々とした梢が揺れた。秋の陽はつるべ落としというだけあって、沈みはじめてからが早い。閉ざした瞼の裏側を西明りの名残が沈んで行く。  ――かの国はあちらだろうか。  毛利隆元は正室である大内義隆の養女との間に二男一女を儲け、生涯、側室を持たなかった。隆元の死後、寡婦となった妻は実家には帰らず、隆元の遺児と毛利家を守り続けた。  隆元が戦場から彼女に送った手紙には「たいした事は起きていないが、この手紙を預ける男が吉田に戻ると言うので手紙を書いた」という一文からはじまっており、夫妻の仲睦まじさを後の世に物語っている。
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