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プロローグ
この世には、ノーと言えない仕事が二つある。
「ちょっと、悠里。あなた今、どこにいるの」
「有楽町です。奥様」
「なんでそんな所にいるのよ」
「仕事です。フォーラムから依頼が」
秋の夜風が頬を撫ぜる。ぼくはとあるビルの屋上で、肌寒い風に吹かれながら、奥様からの電話に出た。インカムに響く声には、苛立ちと呆れが混じっていた。
「フォーラム? ああ、殺しのね」
「はい。一昨日の昼間にメールが」
「ちょうどよかった。ホテル・ペニンシュラのマンゴープリンを買ってきてちょうだい」
屋上から下を覗いてみる。眼下に行き交う人の数は昼間と変わらないくらい多い。煌びやかイルミネーションやショウ・ウィンドウの灯りの合間を、人々は足早に通り過ぎていく。ぼくに気づく者など一人もいなかった。
手首の内側に向けて取り付けた腕時計を見た。時刻は一九時四十三分を差していた。ぼくの記憶が正しければ、ペニンシュラのテイクアウトは二〇時までだ。
「奥様、もうすぐ営業時間が」
「ええ、そうよ。あと十七分」
「標的は二〇〇〇にオフィスに戻るんです」
「二つ買ってくるのよ。私の分とあなたの分」
「……承知しました」
この世には、ノーと言えない仕事が二つある。
まずはこの仕事、『殺し屋』だ。
殺しの仕事なんて、依頼が来た時点で断れない。そういう仕組みなのだ。
ぼくは殺し屋専用のフォーラムに所属している。フォーラムはメンバー間での情報交換や仕事の斡旋、殺し屋と依頼者の仲介もしている。
誰かを殺したいほど憎んだり、邪魔に思ったりする者は多い。この稼業を営んでおいて言える立場ではないが、みんな人を恨みすぎだ。おかげでぼくは食いっぱぐれる心配はないのだけれど、繁盛するのもどうかと思う。
フォーラムに所属しないでフリーで請け負う殺し屋もいる。しかし、フォーラムにいれば、スケジュールや報酬額の調整、仕事場所のセッティング、武器の調達などサポートが受けられた。報酬から手数料は引かれるが、とても便利だ。
というわけで、ぼくは殺し屋という職業の性質上と、フォーラムとの関係維持のため、この仕事は断らないようにしている。
「よろしくね、悠里」
奥様はそう言って通話を切った。時刻は十九時四十五分。深呼吸をして状況を整理する。
つまりぼくの状況は、十五分後に現れるはずの標的を始末して帰宅するというシンプルなものではなく、まずはペニンシュラのカフェに行き、マンゴープリンを二つ購入し、その足で標的の事務所へ向かい、速やかに始末してから帰宅するというものに変わったというわけだ。
理解が状況に追いついたぼくは、屋上に設置していたスナイパーライフルを片付けた。ほかの道具もバックパックにしまう。
誰にも見られないよう祈りながら、屋上のふちにロープをかけた。腰に取り付けたハーネスとロープをつなぎ、身を乗り出す。ぼくはビルの隙間を降下した。
地面に着地すると、ロープを手早く回収する。すぐ近くに停めておいた車にそれらを放り込み、急いでペニンシュラに向かった。
ペニンシュラの瀟洒な外観を横目に走りつつ、ぼくは地下の階段を駆け下りた。このホテルのカフェは地下にある。
「いらっしゃいませ」
「マンゴープリンを二つ」
「かしこまりました」
色とりどりのスイーツが並ぶショーケースが眩しい。店員は、閉店間際に文字通り飛び込んできた黒づくめの男を、怪訝な顔で見つめた。
ぼくは奥様のオーダー通り、マンゴープリンを二つ注文した。代金を支払い、店員がプリンを包む間に時計を見た。十九時五十五分。いいタイムだ。
「お待たせいたしました」
「どうも」
ケース越しに手渡されるケーキボックスを受け取る。そのとき、足元に折りたたまれた段ボールの束を見つけた。閉店したあと、廃棄するつもりなのだろう。
「あの、この段ボール、ひとつもらってもいいですか?」
「はあ……どうぞ」
店員はいよいよ怪しんでいた。しばらくペニンシュラに近づくのはよそう。
「ありがとう」
ぼくは適当に段ボールを掴むと、ケーキボックスと一緒に抱えながら店を後にした。
今回の殺しの仕事の標的は、七〇代の男性だ。ホテルの近くにあるビルに事務所を構えている。事務所は小さく、従業員は電話番の女と数人の事務員しかいない。だが、建設業界出身である標的は、政界や財界に太いパイプを持つ人物だった。男には巨額の賄賂事件に関わっているという黒い噂があった。
邪魔になったのだろうか、怒りを買ったのだろうか。ぼくにはよくわからないが、とにかく男には死んでもらわないと具合が悪い連中がいるのは事実だった。
件のビルに到着する。築年数が半世紀は経っていそうな古いビルだ。ワンフロア・ワンオフィスなのは都合がいい。サイレンサーを装備しているとはいえ、周りにバレにくいに越したことはない。
ぼくはエレベーターに誰も乗っていないのを確認すると、乗り込んで五階のボタンを押した。エレベーターが軋みながら上昇する間に段ボールを折りたたむ。
事務所の看板が掲げられた一室にたどり着く。ポケットに入れておいた野球帽を被り、インターフォンを鳴らす。
「はい」
スピーカーから若い男の声がした。おそらく秘書か事務員だろう。
「ダイワ運送です。お届け物をお持ちしました」
「はいはい」
モニターに向かって段ボールを掲げて見せる。スピーカーの応答が切れ、ドアの向こうに人の気配が現れた。
箱の下に隠しながら銃を抜く。
「ハンコっているんで……」
ボールペンを片手に出てきた青年を撃つ。崩れる身体をドアの向こうに押し込みながら、室内に入る。入り口脇にある棚に、プリンの箱を置く。
奥の机に座っているのが標的の男だった。男は一瞬で非常事態に気づくと、机の引き出しを開けた。
「てめぇ! 誰の差し金だ!」
「言うわけないでしょう」
男とぼくが発砲するのは同時だった。男は二発発射した。一発目の弾丸が、ぼくの帽子を弾き飛ばす。
銃口の向きからして、二発目はぼくに当たるだろうなと思った。おそらく肩か二の腕あたり。うーむ、やはりな。左の二の腕にヒットだ。
コンマ数秒の間に、凝縮された思考がシナプスを駆け巡る。それから痛みも。防弾服のおかげで弾がぼくの身体を貫くことはないが、衝撃は伝わる。まずは腕が抜けるほどの強い振動、痛みはそのあと脳に伝わる。
常人なら耐えられないほどの痛みだ。だが、ぼくは慣れている。
それから、ぼくの弾丸はというと、腕の衝撃にもブレることなく、男の心臓を撃ち抜いていた。
男は贅肉がたっぷり詰まった体を揺らしながら、床へ崩れ落ちた。どくどくと流れる血がブランド物のワイシャツを紅く染める。
「白百合……姫」
眉間にもう一発。男は今度こそ動かなくなった。
やれやれ、今際の台詞なのにお姫様とは。すっかりファンタジーだな。
まあ、無理もないか。ぼくの真っ白な髪を見ると、みんなそう呼ぶんだ。
人殺しを請け負う白髪の人物。
白百合姫と。
「終わりました」
ぼくはスマートフォンを取り、奥様に電話をかけた。
「片付いたの? プリンは?」
「どちらもつつがなく」
「素晴らしいわ。私の執事は本当に優秀ね」
通話口から奥様の嬉しそうな声がする。電話を切り、プリンの箱を回収する。よかった。プリンは無事だ。ぼくはほっと肩の力を抜いた。
ノーと言えないもうひとつの仕事。
それは『執事』だ。
執事は雇用主の注文にノーとは言わない。ぼくにとって、奥様からの注文は絶対なのだ。必ず遂行する。断らない。
殺し屋と執事。
何の因果か、ぼくはノーと言えない二つの仕事の両方に就いている。
◇◇◇
「やあ、お疲れさん」
車に戻ると見知った顔があった。よく知った顔ではあるが、あまり会いたくない人物だった。
男はぼくの車にもたれかかり、煙草を吸っていた。ぼくに気が付くと手を上げてほほ笑んだ。
「賢爾さん、なぜここに?」
「いや、何。私もこの近くで仕事だったものでね」
上着の内ポケットから携帯灰皿を取り出し、煙草を捻じ込む。辺りにはいがらっぽい香りが漂っていた。
「待ち伏せですか」
「人聞きの悪い。きみに仕事を伝えたのは、私だろう?」
男の名前は青砥賢爾という。賢爾はフォーラムの人間だった。フォーラムに所属する者は三つに分けられる。まずは運営を担う『主催』、それから仕事を請け負う『メンバー』だ。三つめは賢爾のように、運営からの指示をメンバーに伝える『メッセンジャー』と呼ばれる連中だった。
ぼくは個人的にこの男が好きになれない。いつもニヤニヤと笑みを浮かべ、軽口を叩く。飄々として人を食った態度が気に障るのだ。
「ちょっと、なに乗ってるんですか」
ぼくが車に乗り込むと、賢爾も助手席に座った。ぼくが制しても、笑みを崩さず肩をすくめるだけだ。
「ひさびさに奥様の顔を見たくなってね」
「何時だと思ってるんですか」
「まだ宵の口だろう? もちろん手土産もある」
賢爾は縦長の紙袋を掲げて見せた。ワイン用の袋だ。
ぼくは返事をする代わりにため息をつき、エンジンをかけた。
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