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水妖日の人魚
「アンタ、ちょっとそこの」
会社からの帰り道。僕は駅前の露店のオッサンに「アンタだよ、アンタ」と声をかけられた。「声をかけられた」なんて言うとずいぶん優しいが、立ちふさがれすごまれたというほうが正しいかもしれない。
19時の街は、家路を急ぐ人でいっぱいだ。怪訝な顔で迷惑そうに避けていく人々の流れの邪魔にならないよう、早々にオッサンの店先に場所を移した。
こういう時無視して行けないのが、僕の悪いところだ。
「悪いんだけどさ、コイツを買い取ってくれないかい」
安くしとくから。オッサンの指差す先を見ると、ゆらゆらふわふわと楽しそうに泳ぐ人魚の中で一人だけ、ぽうっと僕を見つめているのがいる。目が合うとぱっと奥へ逃げてしまったが、その頬がほんのり赤く染まっているのがわかった。
「コレ、アンタに恋しちまったみたいでね。そんなんだともう売り物にならないんだよ」
人間に恋をする個体はめったにいないそうだが、突然変異で起こってしまうらしい。そうなると他の個体と仲良くできないし、徐々に弱っていってしまう。そんな状態では他の人間の飼い主を見つけることすら難しくなる。他の人に飼われてすぐ、死んでしまうことだってある。さらに一番困ったことには、同じ水槽に恋する個体がいると、興味を持った他の個体も恋を覚えてしまうこともあるのだとか。
「そうなると果てはこの水槽ぜんぶ恋する乙女の群れになっちまう。俺の商売仲間には管理をなまけたせいでイケスの人魚ぜーんぶが溜息ばっかりつくようになって廃業寸前になっちまったやつもいるんだ」
水槽も付ける、恋をした人魚に餌はいらない、できたら週に一回くらい「好き」と言ってあげればいいとのことだった。安くするとは言っても給料日前にはちょっと勇気のいる値段だ。ふと疑問に思った僕は、聞いてみることにした。
「僕が断ったら、この子はどうなるんです」
「上半身は知らないが、下半身はかまぼこ工場かな」
サっと青ざめる僕を見て「嘘だよ」とオッサンは笑う。
冗談とはいえ、昨今の愛護団体が聞いたら憤死してしまいそうなセリフだ。さすがの僕もなけなしの勇気が出た。財布に入っていた紙幣を渡すと「ほんと助かるよ、よろしくな」とおまけの水槽やらと一緒にバケツに入った人魚をぐいと押し付ける。飼い方はこれに載ってるから!と手作り感満載の小冊子も握らせてくる。至れり尽くせりだ。オッサンがバケツにむかって「幸せにな」と呟くのが聞こえた。
なるほど、人魚のいる生活というのはなかなか良いものだった。
『はじめて人魚と暮らすには』という冊子の『恋してしまった人魚』のページに従い、基本的には僕の姿が見えるリビングの水槽に入れることにした。仕事の時にはバスタブに水を張って泳がせているので運動不足も心配なさそうだ。時々水槽の縁に肘をついてこちらを見ていたりするが、これはかまってほしいときの行動らしい。初めこそ焦ったのだが、脱走するわけでもないし、乾く前に自分で水中に戻るから特に問題はないようだ。
人魚は僕らのように喋れないが、こちらの言葉を理解しているようで「すきだよ」というとにっこり嬉しそうに笑う。
時々、か細い声で歌も歌う。落ち込んでいる時に聴いた時は、我ながら情けないが水槽に縋りついてボロボロ泣いてしまった。人魚は雨のような涙に驚いていたようだが、優しく頬にすり寄ってきた。僕の「すきだよ」はだんだん本気の熱を帯びるようになってきたし、週に一度どころか日に何度も口に出すこともあった。そのたびに人魚は嬉しそうに頬を赤らめ、尾びれでぽちゃんと返事をするのである。
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