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冬休みの少し前に実家に帰って、地元の総合病院で検査を受けた。特に変わらず今まで通り経過観察。高ストレスはよくないはずなのに、心臓自体は丈夫らしい。
不謹慎だが、事が済んだ後の入院生活は嫌いではない。局所麻酔の痕は痛むが、三食昼寝付きで、テレビもあるし本もある。そして特に何もしなくてもいい、ぼんやり過ごす一日が贅沢に思える。
ベッドに寝転んで、窓枠に切り取られた四角い空をぼんやり眺める。本格的な冬が到来する少し前のやわらかく澄んだ青空。穏やかな昼下がりだった。
三日前、つまり検査入院の前日、両親と今後のことを話し合った内容を回想する。
卒業して第二新卒扱いになってしまうと、受けられる会社も限られるようだ。だから、あえて卒業せずに留年して、もう一度就活したいと思う。そう伝えた。
「大丈夫なのか。」
「なんだかんだ言って学歴でなんとかなるという甘い考えで突っ込んでいって、最初に失敗してから立て直すこともできず、圧倒されて終わってしまった感じだった。でも一年間やってみて、自分の弱いところ、足りないところも見えてきたし、戦い方も分かってきたと思う。今年と同じようなことにはならない。」
「あと一年、やれる気力はあるのか。」
「ある。」
「そうか。分かった。お前はすぐ自分を追いつめる癖があるから、もっとリラックスしてやりなさい。大丈夫だから。」
思ったよりも簡単に受け入れられて、少し拍子抜けするくらいだった。
「もう一年も迷惑かけて、本当に悪いと思っている。もう授業に出ることはないから、とりあえず面接シーズンまでは、しっかりバイトして生活は、なんとかする。」
「そんなことは気にするな。せっかくやるなら、就活に専念した方がいい。小中高と全部公立、塾にも行かず現役で国立大に入った。かなり家計的には助かったよ。あと一年くらい何も問題はない。」
それは多額の医療費を負担してくれた親に、せめてもの矜持のつもりだった。それなのに本当に申し訳ない、という言葉は声にならなかった。ただうなずくのが精いっぱいだった。
四角い空の中を少しずつ雲が流れていく。
白い雲の中に、自分の原風景とも言うべき幼き日の記憶が浮かんできた。記憶にあるシーンの中で、もっとも昔の光景の一つ。
保育園の年中、最初の入院の時も、たしかこんな風に四角い空を眺めていたように思う。病状が進んで高熱が続き、立ち上がることもできなくなった時期があった。点滴につながれたベッドの上、窓から見える空が世界の全てだった。
そんな時、お見舞いに訪れた園長先生がくれたのが、鉄道の絵本だった。幼児向けの絵本といっても、ものによってはかなり詳しい情報が書かれている。そこに書いてあった車両形式や運転区間は、どのページかも含め今でもはっきりと覚えている。
その頃からだったと思う。ここではない知らない場所に自分を連れて行ってくれるものに強い憧れを抱くようになったのは。鉄道やバス、飛行機に船、やがて空港や駅も大好きになった。人々の集まるランドマークのにぎわい。そこから始まる物語の予感。写真の中でも窓ガラス越しでもない、広い世界に飛び立ち、生きてみたいと願った。
もう一つ、その時期の記憶がある。
最初の入院の後、専門的な検査をするために大学病院に転院した。季節はちょうど冬で、その日は小児科病棟のクリスマスパーティーがあった。パーティーがどんなものだったかは覚えていないが、ただ子どもたちがキャンドルの灯を順番に渡していく光景だけが鮮明に記憶に刻まれている。
自分に灯を渡してくれたのは、たぶん自分より少し年上の少女だった。とても美しい少女だった。灯りを消したキャンドルの灯の中、きれいな白い肌と澄んだ眼が記憶に刻まれている。クリスマスの日も家に帰れずに小児病棟にいるのだから、それなりの事情があり、辛いことも抱えていたのだと思う。
それなのに、なぜこんなにも優しく思いやりに満ちた眼をしているのだろう。幼き心に不思議に思った。彼女がその後、どうなったかは分からない。どこかで幸せになっていたらいいなと願うだけだ。
生きることはつなぐこと。命の灯を、あたたかさを、思いを。だから、生きていることを当たり前に思いたくはない。生命の全ての邂逅は奇跡だから。
ただ、今までは壁にぶつかるたび、生きる答えを誰かや何かに頼ってきた。目に見える結果だったり、親や周りの賞賛だったり。
今なら少し分かる気がする。誰を倒しても、何から逃げても、弱い自分からは決して逃げられないということを。いくらステータスやスコアで自分を飾ったところで、目の前の弱い自分を超えていかなければ道は開けない。今の自分には将来の不安しかない。今度失敗したら、さすがに人生絶望的だ、野垂れ死ぬしかないという恐怖にもかられる。それでも数ヶ月前よりかは少しだけ肩が軽くなった気がする。
今、この道の先にはかすかに光が見える。ここから始まる旅路は、きっと何かにすがりつくことなく、自分の足で歩いていこう。探してきた答えなら、いつの日もこの手の中にあると今なら言えるから。
年が明けて、京都に戻った。大学に行く用事はほぼないが、さすがに舞田にいて就職活動をするのは難しかったので、そのままアパートの契約を更新して京都で活動することにしたのだった。京都に着いた翌日。口座に半年分の仕送り金額が振り込まれていた。もちろん親からだった。何かの手違いかと思って、すぐに親に連絡した。手切れ金とかじゃないから心配するな、そう言って父は笑った。
ちゃんと毎月の分も入れとくから、面接あれば遠慮せずに新幹線使えよ、そういって励ましてくれた。感謝はやはり言葉にならなかった。
二度目のスタートライン。迷った末、最初にしたことは関空に手紙を書くことだった。このスタートラインに立てたのはやはり関空があったからだと思う。手紙でいい印象を持ってもらおうなんて打算ではない。むしろ、結論は出ているので二回目は受けないでくださいと言われるリスクだってあるだろう。ただ届けたい気持ちを言葉にする。
拝啓
厳しい寒さが続きますが、貴社ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
このような手紙を差し上げてよいものか分かりませんが、私の心のままを書き記すことにいたします。
私が貴社の新卒採用試験を受験してから、約7カ月が経ちました。昨年の試験の折は貴社への思いばかりが先行し、社会人になろうとする上での意識がおろそかになっていたように思います。せっかく最終面接まで受験させて頂いたにも関わらず、ご期待に応えることが出来ず、申し訳なく思っております。
受験後は航空会社のポスターやコマーシャルをふと見かけるたびに涙が出るほどで、二度と航空業界を志望することはないものと思っておりました。しかしながら、昨年末ある友人にそのような感情は逃げではないかと指摘されることがあり、それをきっかけに自分の中の鼓動に素直になって考えることができました。そして命をかけても働きたいと思える場所は関空であるということを再認識し、結果として卒業論文の提出を停止し、留年という形を取り、今年もう一度挑戦することを決意いたしました。
貴社から一度は縁がないという結論を頂いたにもかかわらず、また挑戦するというのは身勝手な行為であると承知しております。それでも昨年の経験を生かし成長した今の自分をどうか見て頂きたいと思います。
また関空島でお会いできるよう全力を尽くします。ますはごあいさつまで。
敬具
令和〇〇年一月吉日
京都大学文学部
池谷一也
関西国際空港株式会社 総務部人事課御中
応募は四月だからまだ先だった。ただここから始めたかった。
返事が来て、二回目受けても採りませんと言われたら即刻ゲームセットだったが、特に返信が来ることはなかった。
朝晩の寒さが厳しい京都の冬、その寒さが和らぐに連れ、少しずつ加速していく就活のシーズン。今年も戦略自体の大幅変更はない。関空を軸に他社もエントリーしていく。
ただ昨年の最初の頃は何も知らず、ついエリート意識から様々な業界のトップの企業ばかり受けてきた。京大ならトップの企業じゃなければいけないという意識はかなりあった。今年は業界を絞り、昨年はエントリーしなかった、あまり知名度のない会社も積極的に受ける。
また同じような自己PR&志望動機の日々になってきた。45連敗からのリスタート。今さら落ちるのが怖いはずもない。かつてのどん底の時期に比べれば受けられる会社があるだけありがたい。
やがて三月になり、コートもいらなくなってきたある日。前回は受けなかった語学関係のスクールを展開する会社、SHANVIグループの一次面接にやって来た。
苦手なグループディスカッションだった。昨年の戦績でグループディスカッション突破率は2割に満たなかった。通常の面接は約3割弱といったところ。それでもこれを突破しなければ、先はない。
1グループは5人、テーマは「日本に来た外国人のためのツアーを企画する」というものだった。ディスカッションというより、グループワーク。どこかの航空会社みたいに、生き残りをかけた壮絶な潰しあいというでもなく、比較的和やかに進んだ。話はとりあえずアメリカから来た人をターゲットに京都・奈良を案内するプランを作成しようという方向で進み、具体的な旅程について話が始まった。とはいえ時刻表もガイドブックもない状況で、「この日は日本の昔ながらの生活を体験してもらう」とか、抽象的なプランに終始してしまう。スマホを見だしたらディスカッションにならないので、禁止にされていた。
無難についていくこともできた。ただ、ふと気づいた。これはチャンスなのかもしれない。今、自分の持っているものを出したらどうなるだろう。一年前であれば、どんな反応になるかばかり気にして、流れの中で言葉が出せなかった。それでは今までと何も変わっていない。
「ロサンゼルスからだとスカイクリスタル313便が関空まで毎日飛んでいて、関空到着は十六時三十分です。そこからバスを使ったとして京都まで大体1時間40分、もしJRの特急を使うなら・・・」
他の学生、それに面接官も一斉にこっちを見る。ぽかんとしている学生もいる。
もう後にはひけない。なるべく冷静に、いやらしくならないように注意してつなげる。気がつけば自分がプランニングをリードしていた。
「いったい、あなたは何者ですか?」
半分冗談めかした感じで、小さな声で隣の学生に聞かれた。
「歩く時刻表・・・と言われたことはあります。」
こちらも小さな声で笑って答える。
関空の名前を口にするのも、今は辛くなくなった。まだ何も終わっていない、これからだから。しばらくのブランクはあったが、かつては常に時刻表をチェックしてきた。関空発着のスケジュールも空港から主要観光地までのアクセスもいくらでも話せる。ついでに言えば、京都や大阪の主要ホテルと料金相場も大体抑えている、いつ関空のターミナルに立ってもやっていけるように。
空気を読むという言葉が嫌いだった。その場の権力者が決める「正解」をいかに早く正確に読み取れるかだけのくだらないゲームだと嫌悪していた。しかし、もしもひたすら合わせるためではなく、機が熟すのをじっとうかがい、わすかなチャンスを逃さず、一発で仕留めるために空気を読んでいるのだとしたらどうだろう。
肩をすくめて分かったような顔を装っていても、流れに任せているだけでは決して辿りつけない領域がある。リスクがあっても、たとえそれがお手つきになったとしても、攻めることでしか奪えないものがある。チャンスがきたら迷わず振りぬく。Get Just One。それは、あの頃の自分たちが畳上に求めた情熱そのものだった。
今日はグループディスカッションだけで終わりかと思っていたが、そのまま集団面接が続いた。先ほどの雰囲気そのままに和やかに進んだ。最後に「いちばん好きな言葉は?」という質問があった。なぜか他の学生はそろって「温故知新」だったり、「臥薪嘗胆」といった故事成語を挙げた。四文字熟語が最近のトレンドだっただろうか。そう考えている間に自分の番がきた。四文字熟語のパターンなら用意できている。ただ、今回の質問にそんな指定はなかった。今いちばん好きな言葉を正直に言おうと決める。ある作家の言葉、「夢は捨てられないから夢なんだ」。
ここまでやってダメならそれでもいい。昨年はそう思える面接は、ほとんどなかった。想定質問のシミュレーションは念入りにやった。ただ、結局は周りに合わせることもよしとせず、だからといって自分を出そうにもタイミングも測らずに中途半端に難解な世界観を押しつけるだけだったように思う。こんな面接もあっていいだろう。結果はあまり期待しないことにしていた。
数日後に次回面接へ来てほしいと連絡がくる。うれしかった。通過したという事実よりも、伝えたかったことが認められたという事実が自信になる。努力は自信。当たり前のことだが、今までいちばん足りなかったことだと気づく。
夢は捨てられないから夢なんだ。その言葉をもう一度かみしめる。一度ひどい負け方をしたからといって簡単に諦められるようなものなら、そんなものは最初から夢を名乗る資格などない。生きている限り、決して捨てられない思い。夢を終わらせることができるのは、面接官でも人事でもこの世の中でもない。この世界でたった一人、自分だけ。自分が信じることさえできたら、例え形を変えても叶わなかったとしても、いつだって夢はそこにあり、生きる勇気と感動が消えることはないのだから。だからただ、今ある全てを重ねていけばいい。
桜の季節になり、面接が進んでいく会社も出てきた。焦らなくていい。昨年だって何万人の中から数十人に絞り込まれるまで残ったことはいくらでもあった。あともう一歩だ。負けてはいない。連日大阪に通っていてもあまり疲れは感じなかった。必死に名もない会社の採用情報を探していたあの頃に比べれば、普通の学生なみに就活している今がマシに思える。
この時期になると、昼間の時間帯のターミナルは明らかに就活だと分かる黒のスーツ姿の若者ばかりになる。最近は大阪や京都のターミナル駅などで、明らかに就活らしい学生同士すれ違う時は、知らない相手でも「がんばろうね!」とエールを送るのが流行っている。こんな瞬間があると、時に殺伐とする就活であっても爽やかで熱い青春の1ページになったみたいで幸せな気持ちになれる。今この瞬間を楽しもうと心に決める。
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