鹿と女

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原野が広がる山奥。うっそうと茂る森林。天候は曇り。 真夏の空気ではあるが、山の中は少しひんやりしている。 僕は趣味のハンティングでこの場所に来ていた。 自宅から2時間かけて山の麓に達し、車をガードレールの影にとめて入山。 毎年何人も行方不明者を出す、難所がひしめく山であったが、ハンターにとっては獲物の宝庫である。 人が入りづらい場所であればあるほど、野生の動物が多く繁殖するのだ。 狙う獲物は、鹿である。 朝早くから入山していた。昼頃になってようやく一頭を仕留めた。 肉を持ち帰る為、仕留めた鹿のそばに近づいた時、異変が起きた。 僕の後ろから僕を狙撃する銃声がする。 バーン。 「この正確さ・・。ただものじゃない。」 遠くからの狙撃。10秒前に居た場所の樹木に、弾痕が刻み込まれる。 流れ弾なんかではない。僕を狙撃しているとしか思えない、そんなシチュエーションだ。 僕は野生の勘を駆使して、大木の影に隠れる。 双眼鏡で、狙撃手を探す為に観察する。 どこに相手がいるのか検討もつかない。 バーン。 もう一発。今度は僕が隠れた大木を直撃した。 貫通こそしなかったが、大木に深くめり込んだ事を窺わせる音を立てて、大木の中に弾丸がめり込んだ。 僕は打ち返す事にした。 このままでは何者かにやられてしまう。 威嚇の意味を込めて発砲し、獲物の鹿は放置した上で、車まで逃げて走ろう。 銃弾を発射していると思われる方向に一発打った。 バーン しばらく何も音沙汰なくなった。 諦めて撤収したのか?それとも別の場所に移動して、そこから僕を狙っているのか? 数時間が経過する。もうすぐ日が暮れる。日没になると山は非常に危険だ。 夏とはいえ、この軽装で夜を越すのは危険だろう。 僕は大木の影から一歩歩み出る。 バーン 弾丸が僕の目の前を掠めた。 相手はずっとその場で待っていたのだ。 僕は銃とリュックサックをその場に放り投げて、全力疾走で走り始めた。何者かがライフルをリロードする迄には少し時間があるはずだ。その隙に逃げる。 こうなったら、我慢比べしている場合じゃない。 必死に駆ける。汗だくになりながら、来る途中に渡った川を、膝まで水に浸かりながら漕いで乗り越える。 バテバテになりながら、僕は山の麓にたどり着くと、自分の車の中に駆け込んだ。 吹き出す汗。 車の中に置いてあったお茶のペットボトルを一気に飲み干す。 捨ててきたライフルやリュックサックは、後から同じものを買いなおせば済む問題だ。山の中に捨てていこう。 不意に運転席のサイドウインドウを振り返ると、ひどい形相をした男が、そこに張り付くようにしてこちらを睨みつけていた。 咄嗟に、ドアを開ける。 その男はドアに弾き飛ばされて後ろに転がる。 しかしすぐにのけぞるように立ち上がり、ライフルを構えてこちらを射撃しようとしている。 僕は得意のテコンドーでライフルを蹴り上げる。そして反対側の足の踵で、男のこめかみを後ろ回し蹴りにする。 男はこめかみを抑えながら、ナイフを取り出す。 僕は上着を脱いで腕に巻き付けると、対峙する男が突き刺すナイフをかわし、手を後ろ手に締め上げて、完全に肘をキメる。 怪我をさせると僕の方まで牢屋行きになる。だから骨を折るところまではやらない。 男を地面に押し倒して、僕は男に対して問う。 「何故俺を殺そうとする!」 「頼まれた。」 「誰に!?」 「お前の彼女だ。結婚を約束していたのに一方的に破棄された事を根にもった。お前の趣味が狩猟なのは好都合だ。流れ弾に当たって死んだ事にすれば、誰もが納得する。」 付き合って5年になる彼女がいた。彼女とは結婚の約束をしていたものの、なかなか踏み切れず、結婚に至らぬ状況が長く続いていた。 先月、転勤の辞令が出てしまった。彼女に地方への移住を伝えたが、それは嫌だとゴネられた。根っからの都会育ちだから、地方は嫌なのだ。 それをきっかけに、結婚そのものの話が白紙になるような、会話の流れになっていた。 あれ以来1ヶ月以上、連絡を交わしていない。電話が鳴っても出ない。SNSから届くメッセージも一切無視していた。 狩猟の趣味は、そんな日常に起きた残念な出来事を癒す、良い気晴らしとなっていた。 「初めての相手だったと言っていた。自分を最初に抱いた男と結婚するのが夢だったと言っていた。」 男は彼女が僕に処女を捧げたのだと言う。 「クソっ」 僕は、男を黙らせる為に溝落ちあたりの横腹に一撃を加え、気絶させた。 「殺し屋まで雇って・・。そこまで俺の事を・・。」 僕は彼女から沢山もらった着信履歴の一つを押してリダイヤルする。 彼女は待っていたかのように、すぐに電話に出た。 「お前・・・殺し屋まで雇って・・。」 「あなたが・・あなたが初めてだったの!!私が全部を捧げる相手はあなたしかいない!!他の女に取られるなんて嫌!!」 泣き崩れるように彼女は電話越しに激しく嫉妬心をたぎらせた。 僕は車に再び乗り込むと、エンジンをかけて都心に向けて車を走らせた。 僕を殺しかけた彼女を許せる自信は無い。だが一度抱きしめてあげたいと思った。 (終わり)
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